朝鮮人強制連行
―その概念と史料から見た実態をめぐって―

はじめに

 ここのところ、国家主義的な歴史観を強めようとする人々は、いわゆる「朝鮮人強制連行」などなかったとする主張を宣伝している。しかも、本年一月一七日に行われた大学入試センター試験の世界史で強制連行に関係した出題があり、これに対して新しい歴史教科書をつくる会や自民党議員らが抗議を行ったことが一般紙等でも報道され、「強制連行」の語がクローズアップされることとなった。
 これらの団体及び人々が批判している問題は、日本の朝鮮統治について述べた文として正しい文章がどれかを問い「第二次世界大戦中、日本への強制連行が行われた」という選択肢を正解とするというものである。
 しかし、この問題を不適切として批判する人々が指摘している点(二〇〇四年一月二七日付、新しい歴史教科書をつくる会会長名で出された、大学入試センター所長宛の「大学入試センター試験の『強制連行』に関する設問についての公開質問状」で確認できるもの)は大学入試センターの出題を不適切とする論拠にはなり得いか、あるいは論拠自体が「強制連行」の語や史実についての誤解をもとにしたものであると言わざるを得ない。
だが、前記のような批判によって、あたかも「強制連行」の語が何か問題を持つものであるかのような印象や、「強制連行」と言われるような実態を裏付ける根拠が薄弱であるかのような誤解を一部の人々に与えている可能性も否定できない。
 そこで、以下では、「朝鮮人強制連行」という語が歴史研究の世界でどのように成立し、用いられているか等についてまず述べ、あわせて、朝鮮人戦時動員の実態がどのようなものであったかについて、いくつかの具体的な史料から検討することとする。

1、「朝鮮人強制連行」の用語の成立の背景

 「朝鮮人強制連行」の語が一般に普及するのは、一九六五年に出版された朴慶植『朝鮮人強制連行の記録』(未来社)、によってである。ただし、戦時中に朝鮮人を無理やり炭鉱や軍需工場に連行して就労させた例があることは少なくない関係者が知る事実であり、それについては様々な人物がそのことを語っていたし、その際には「強制連行」と類似した語が用いられていた。
 まず、一九四五年一二月八日付『京城日報』では日本人に連れ去られる朝鮮人の漫画風の絵に「強制徴用」の語が付されている(『京城日報』はもともと朝鮮総督府の「御用紙」的立場にたつ日本語紙であったが、敗戦後、日本人社員が退社した後、朝鮮人社員によって日本語を用いたまましばらく刊行を続けていたものである)。また、在日朝鮮人が刊行していた日本語雑誌『民主朝鮮』一九五〇年七月号掲載の林光K「渡航史―並にその性格―」では「太平洋における帝国主義戦争が始ってから朝鮮の青年が徴用労働乃至は勤労動員という名目で数え切れぬ程日本え強制的に連行されたことは記憶に新しい」との記述がある。
 さらに、「法務研究報告書第四三集第三号」として、法務省入国管理局総務課の法務事務官であった森田芳夫がまとめ、一九五五年に法務研修所から刊行された『在日朝鮮人処遇の推移と現状』一七頁でも、「日華事変以後の戦時体制下にあって、政府は、朝鮮人を集団的に日本内地に強制移住せしめる策をとった」の文章がある。
 しかし、この問題についての本格的な歴史研究の成果は一九五〇年代末まで存在しなかった。また、戦後新たにまとめられた朝鮮史、日本近代史の通史でも朝鮮人に加えられた圧迫が特別なものであったことははっきりとは記されていなかった。「学徒動員・徴用・訓練など、日本におけるものと同様のことが、何の発言権もない植民地の民衆に適用された」(旗田巍『朝鮮史』岩波書店、1951年)といった記述に見られるように、日本人学者の間では"戦時中には、日本人同様朝鮮人も苦労した"という理解にとどまっていたのである。
 また、一九五九年には日本政府外務省によって、「国民徴用令」の適用による「徴用」以外の形態の労務動員=「募集」や「官斡旋」(これらの語については詳しくは次項参照のこと)で日本に来た朝鮮人は「募集に応じてきた者」であるという見解がまとめられた 。つまりはこれらの者は強制的に日本に連れてこられたのではないかのような見方が示されたのである。しかも、その見解の文章では、労働者の選定や送出といった労務動員の実態が具体的にどのようなものであったかについては触れていなかった。
 このような状況のなかで朴慶植は、動員の実態について研究を進め、事実を正確に、かつ問題の本質を明確に伝えるために適当な語として「朝鮮人強制連行」を使用したのである。つまり、「朝鮮人強制連行」の語には、「日本帝国主義のために、同じように苦しみをうけていたとはいっても、まったく同じ苦しみではない。そこには民族的な支配と被支配の関係があった」(『朝鮮人強制連行の記録』一二〜一三頁)ことや、「募集」なり「官斡旋」、「徴用」といった語を行政当局側は使用するが、実態としてみた場合、いずれもかわらない暴力的なものであったことを明確にするという意味が込められていたと見ることができる。
 ところで、新しい歴史教科書をつくる会(以下、「つくる会」と略)は、この語について「日本を糾弾するための政治的な意味合いをもって造語された言葉」として批判している。「日本を糾弾する」というのが、何か不当に日本国家および日本人を攻撃し貶めるというようなニュアンスで使われているとしたら、この主張は誤りである。
 朴慶植は、日本と朝鮮の民衆同士が連帯し、友好的な関係をつくりあげることを望んでいた。『朝鮮人強制連行の記録』の序文にもそのような立場からこの著書がまとめられたことが記されている。朝鮮人、とりわけ在日朝鮮人にとっては日本との友好は重要であり、それなしには安定的な生活は成り立たないわけであり、それは当然である。しかしその際、重要なことは正確な史実を認識することが基礎におかれなければならないと朴は考えていたと見られる。そのような意図から「朝鮮人強制連行」の語を用いた著作がまとめられたのである。そこには、問題とし排斥すべき「政治的意味合い」など少しも存在していないはずである。

2、朝鮮人戦時動員の諸形態と「朝鮮人強制連行」の概念規定

 朴慶植『朝鮮人強制連行の記録』以後、戦時期に朝鮮人を様々に動員した事実は多くの人に知られるようになり、また、朝鮮人強制連行の語も広まった。それは肯定的な変化ではあったが、一方で、論者によっては明確な定義もしないまま「強制連行」の語が用いられ、「強制連行」の語に接した人々は多様な意味でそれぞれ「強制連行」の語を理解する傾向も生じていた。一九九〇年代に入り、金英達はその点の問題を指摘し、概念の整理を試みていた。金は朴慶植の問題意識を継承しむしろ植民地支配の問題性を明確にするためにこの作業を行っていた 。ところが、現在、日本国家の加害の歴史を隠蔽しようとする人々は文脈を無視し、「強制連行」の定義は多様であるから問題だといった批判を行っている。
 「強制連行」の語がしばしば多様な使われ方をしていること自体はその通りである。しかし、論者によって定義が異なる学術用語は思いつくだけでも相当ある。もちろん、その場合もある一定の共通の了解はある。逆に言えばもしそれがなければ、その用語は流通し得ないはずである。
 「朝鮮人強制連行」という用語についても同様である。何も論者ごとにその指し示す内容がまったくバラバラなのではなく、「朝鮮人強制連行」の意味する範囲を広くとる論者もいれば、限定的に用いる人物もいるが、大体の共通した認識はあり、朝鮮人強制連行という語で示されるような史実がなかったと考える歴史研究者はほとんどいないのである。
 もっとも広く「朝鮮人強制連行」の概念をとらえるのは、おそらく、戦時期に朝鮮人に対して行われた日本国家の動員政策(朝鮮人戦時動員)総体をそこに入れるケースである。つまりは戦時期に仕事についていなかった朝鮮人、ないしはそれまでについていた職場等での仕事を途絶させて日本の戦争遂行のために新たな任務(労働者として、あるいは兵士として)につかせたこと、および職場の異動や転業を強い罰則を背景に禁じて戦争と密接に関わる業務への就労を強いたこと、のすべてを朝鮮人強制連行とする見解である。
 朝鮮人戦時動員は様々な形態があったが、動員の手続き、動員先、就労期間等を区別してそれを具体的に列挙すれば、次のようである。なお、ここでいう日本内地とは、現在の四七都道府県及びいわゆる北方領土、樺太は日本帝国の領有していたサハリン島南部、南方とは日本が占領していた東南アジアの諸地域、満州とはいわゆる満州国(中国東北部)、中国本土とは、日本の植民地ないしはそれに準じるような地域を除く中国である。

@国家総動員法にもとづく労務動員計画での労働者充足のため朝鮮半島在住の朝鮮人を日本内地、樺太、南方等の炭鉱、軍需工場、土木工事現場に配置し通常二年程度の労働を行わせたことのうち、朝鮮人労働者を雇用しようとする事業主が募集の申請を行い、朝鮮総督府による労働者の募集地域とその人員を決定、認可を受けて、労働者を集めるという形態によるもの。当時の行政当局はこれを「募集」と呼んだ(本稿では「割当募集」とする)。一九三九年九月から実行に移され、これに代わる「官斡旋」の動員形態が実施される一九四二年二月頃まで行われた。

A国家総動員法にもとづく労務動員計画(一九四二年からは国民動員計画)での労働者充足のため朝鮮半島在住の朝鮮人を日本内地、樺太、南方等の炭鉱、軍需工場、土木工事現場に配置し通常二年程度の(場合によってはそれ以上の期間であったことも少なくはない)の労働を行わせたことのうち、朝鮮総督府の作成決定した「朝鮮人内地移入斡旋要綱」にももとづくもの。「官斡旋」と呼ばれ、労働者を雇用しようとする事業主ないしその代行を行う関係団体が申請を行い、朝鮮総督府が募集地域、人員を認可、決定し、朝鮮総督府およびその地方行政機関と警察、朝鮮労務協会などが協力して労働者を選定、送出を行った。一九四二年二月に開始され、戦争終結まで制度は維持された。ただし、一九四五年三月に釜山下関間の連絡船の運航は止まったとされるので、これ以降は日本内地への労働者の配置はなかった可能性がある。

B国家総動員法にもとづく国民動員計画での労働者充足のため、国民徴用令(その廃止後は国民勤労動員令)を適用して朝鮮半島在住の朝鮮人を日本内地、樺太、南方等の炭鉱、軍需工場、土木工事現場、等に配置し労働を行わせたこと。一九四四年九月以降、本格的に行われ敗戦まで制度は維持されたが、前述の事情から戦争末期は日本内地への労働者の配置はなかった可能性がある。

C国家総動員法にもとづく国民動員計画の労働者充足のため、女子勤労挺身令(その廃止後は国民勤労動員令)を適用して朝鮮半島在住の朝鮮人女性を日本内地の工場等で就労させたこと。一九四四年八月以降行われ敗戦まで制度は維持されたが、前述の事情から日本内地への労働者の配置はなかった可能性がある。

D国民徴用令(その廃止後は国民勤労動員令)を適用して日本内地在住の朝鮮人を土建工事現場などに配置し、就労させたこと。一九四三年一〇月以降、戦争終結まで実施された。

E労務動員計画および国民動員計画には計上されていない、「軍要員」として朝鮮人を、日本内地、朝鮮内、満州、中国本土、南方などにおいて、戦争遂行のための基地建設、捕虜監、運輸などの業務に就かせたこと。

F一九四三年四月施行の陸軍特別志願兵令、一九四三年八月施行の海軍特別志願兵令、一九四三年一〇月の陸軍省令第四八号「昭和一八年度陸軍特別志願兵臨時採用規則」により、朝鮮人を日本軍軍人とし、戦争遂行を担わせたこと。

G一九四三年一〇月に改正された兵役法にもとづき朝鮮人を徴兵し日本軍軍人として、戦争遂行を担わせたこと。

H朝鮮人女性をいわゆる従軍慰安婦としたこと。

I朝鮮半島在住の朝鮮農民を技術研修などの名目で、労働力の不足していた日本内地の農家の農作業を補助させたこと。朝鮮農業報国隊と呼称された。

J 朝鮮総督府ないしは翼賛組織の指導のもとで、朝鮮半島在住の朝鮮人女性や朝鮮人学生などを、戦争遂行のために工場や土木建設工事現場などで短期的な勤労奉仕にあたらせたこと。

K朝鮮総督府の斡旋によって朝鮮半島在住の朝鮮人を戦争遂行のために朝鮮半島内の炭鉱や土木工事現場、軍需工場などで就労させたこと。

L戦争遂行と密接にかかわりをもつ生産を行う工場等に就労していた朝鮮人でそれまで国民徴用令の適用を受けていなかったものに対して、それを適用して職場の移動や転業を禁じたこと。現員徴用と呼称された。

 このような朝鮮人戦時動員すべてを朝鮮人強制連行とする論者はそれほど多くはない。そこで、一般的な歴史辞典等で「朝鮮人強制連行」がどのように記されているかを見てみることとしよう。近年出た歴史辞典等一六冊を対象として調査したところ、二つについては関連する項目の掲載がなかった。一つは『日本史事典』朝倉書店、二〇〇一年一月、もう一つは『山川世界史小辞典(改訂新版)』山川出版社、二〇〇四年一月、である。残りの一四冊については、「朝鮮人強制連行」ないしそれに類する語が項目として掲載されており、『山川世界史小辞典(改訂新版)』については姉妹版というべき『山川日本史小辞典』に「朝鮮人強制連行」の記載がある。これを見れば、「強制連行」の語が、歴史用語として広く認知されていることがあらためて確認できる。
 さて、それぞれの辞典等における関連項目記述で、「強制連行」概念が何を含んでいるかを示せば、別表のようになる。「『強制連行』概念の範囲」の項目の数字は前述の動員の諸形態にふった数字に対応している(以下の本文でも同じ)。
 ここに見るように、大半の辞典では、少なくとも、@、A、Bは「強制連行」の範疇に入れられていることがわかる。『日本史総合事典』の「朝鮮人・中国人強制連行」の項目も文字数が少ないためあいまいさを残すが、@、A、Bを排除したものではないと判断できる記述となっている。つまりは、バリエーションはあるにせよ、@、A、Bを「強制連行」の概念のなかに入れることは、歴史研究者の間で一致していると言って差支えない。
 この@、A、Bは、いずれも日本政府の決定した動員計画(労務動員計画ないし国民動員計画)にもとづいて行われたこと、朝鮮内から朝鮮外への動員(主に日本内地)であったこと、戦闘に従事したり戦場に送られたりしたのではなく労務動員であったこと、で共通している。
 もっとも、どこまでを強制連行とするかは一四冊においても幅がある。このほかに、@〜Lまでのうちで、ないしは、@〜Bのうちで、特に物理的な暴力によって労働現場に送られたケースのみを「朝鮮人強制連行」とすべきだという見解も存在するだろう。その意味では確かに、不用意に「朝鮮人強制連行」の語を用いた場合においては、混乱が生じるおそれはないわけではない。
 しかし、朝鮮人戦時動員の諸形態として前記のようなものがあり一般には@〜Bが「朝鮮人強制連行」として把握されていることを踏まえ、学術論文やそれと同程度の厳密さを要求される文書あるいは会話においては「朝鮮人強制連行」の意味内容を明らかにした上で使用すれば、無用な誤解や摩擦は避けられる。したがって、「強制連行」の語があいまいで問題があるとは言えないはずである。

3、国民徴用令の適用による動員とそれ以外の動員の同質性と異質性

 ところで、「強制連行」の語を積極的に用いる論者のなかには見受けられないが、労働力としての朝鮮人戦時動員の諸形態、あるいはそのなかでも前記の@〜Bのうち、国民徴用令の適用による徴用=Bと、それ以外=@、Aを区別すべきだという見解がある。例えば、一九八二年の教科書検定の際、「強制連行」の語の削除に対する批判への反批判として、文部省は次のような見解(要旨)を示している。すなわち、「戦時中の朝鮮人労働者の内地移入は、時期によって形態が異なり、昭和一四〜一七年は自由募集、昭和一七〜一九年は『官あっせん』であって、形式上、自由応募によるものだった。昭和一九年以後、国民徴用令が適用されることとなった。従って、これらを一括して『強制連行』と表現することは適当でない」 というものである。また、新しい教科書をつくる会など「強制連行」などなかったと主張する人々の間では、しばしば一九五九年に出された外務省の見解が論拠として引き合いに出されるが、これも国民徴用令による徴用のみを国家の意思にもとづく動員とし、@やAとの差を強調し、やはり@やAで日本内地に来た者を自由意志でやってきたとしている 。
 国民徴用令による動員は、国家が登録された就労可能な者のなかから選んだ人物に対して徴用令書を渡して指定された事業所での就労を命令するものであり、これを拒否すれば法によって罰せられた。これに対して、@やAは、国家が具体的な個人に対して就労事業所を特定して命令を下すものではなく、動員に応じない者を強く罰するという法律上の規定はない。その意味では、つまり法律の条文に限定してみれば、国民徴用令と@、Aの動員形態は異なる。
 その点を認めたとして、しかし、動員される側から見て、国民徴用令の適用による動員とそれ以外の戦時動員が区別されるような質のものであったかどうか、という問題を考える必要がある。つまり、制度を規定した文書や法の文言ではなく、動員の実態はどうであったか、である。動員する側が募集だ、官斡旋だ、徴用だ、といろいろ名称を変えたにせよ当時の朝鮮人にとっては、自分の意思に反して連れて行かれ労働を強いられたという点では同じだったのではなかろうか?
 後述するが、実際に同時代の史料から見て、割当募集や官斡旋段階においても、公権力を背景とした強制力によって労働者の充当がなされていた。したがって、労働者送出段階の実態、そこにおける国家権力が介在した暴力性の有無について、国民徴用令の適用による動員とそれ以外の動員を区別することは意味がない。あえてそれを区別し強調する論者に対しては、日本国家が朝鮮人に対して行った人権侵害を隠蔽しようという意図を持っているのではないかという疑いを抱かざるを得ない。
 なお、制度や法令上の問題について再び戻れば、労災補償などに関しても、国民徴用令の適用を受けた労働者であったか否かで差異があることは確かである(前述のLにより、割当募集や官斡旋で動員された者でも、その後、国民徴用令の適用を受けた労働者となったケースは少なくないことに注意を促しておきたい)。徴用された労働者に対しては国家が遺家族に対しても含めて手厚い援護を行うことが規定されていたからである。つまり、国民徴用令の適用による労働者に対しては国家としても責任をもつが、それ以外の労働者については保護や援護を行わない、という法的な差がつけられていたのである。
 さらに労働者としての動員以外にまで目を広げれば、動員した相手に対する国家の拘束性の強さとそれに対する保障の重さの関係はよりわかりやすくなるだろう。兵士にすることは完全に国家に身を捧げよということであるが、それだけに傷痍軍人や遺家族に対する援護は、徴用労働者などに比べて各段に手厚くなっていた。つまりは、国家の拘束性と、国家としての援護の厚さは、ともに、兵士>徴用労働者>一般の労働者、となっていたのである。ちなみに、動員された者の地位や名誉について見ても、当時の公式の価値観はこの序列となっている。日本帝国の兵士となることは大変な名誉であったが、徴用された者も「応徴士」と呼ばれて兵士に准じるくらいの存在であると持ち上げられ、一般の労働者と差がつけられていたのである。
 たとえて言えば、これは日本帝国株式会社が次のような労務の編成で事業を進めていたということである。すなわち、正社員、人材派遣会社A社の雇用の形となっている派遣社員、下請け業務を日本帝国株式会社から請負った会社B社の社員がいる。そして、正社員は日本帝国の基幹的な業務を担っており、社内共済も利用できる。A社の社員(派遣労働者)が担う仕事も日本帝国としてかなり重要であり、ほとんど日本帝国の指示で動いているわけだが、給与はA社が出しており、日本帝国の社内共済も一部利用できる。B社の社員(下請け労働者)の仕事も実際には日本帝国株式会社の業績をあげるためのものなのであるが、給与はB社からもらい、日本帝国の社内共済はまったく利用できない。日本帝国がこのような会社であったとした場合、正社員は兵士、A社の社員(派遣労働者)が国民徴用令によって徴用された者、B社の社員(下請け労働者)が割当募集や官斡旋による労働者、となる。
 ついでに述べれば、このような待遇の差自体にも問題があるにせよ、日本帝国とそれを引き継ぐ日本国の朝鮮人に対する対応は、別なレベルで相当に問題があると言わざるを得ない。それは、派遣社員や下請け会社の社員のみならず正社員も含めて、労災補償もしなければ未払い賃金も払っていない、というようなものであるためである。

4、史料を通じて見た「朝鮮人強制連行」の実態

 では、朝鮮における労務動員計画・国民動員計画の労働者充足の実態はどのようなものだったのであろうか? これについてはすでに当事者の様々な証言があり、多くの関連図書からそれを知ることができるが、ここでは同時代に記された行政当局や企業内部の文書ないしそれに準ずるものに依拠して検討していくこととする
最初に、住友歌志内炭礦「半島礦員募集関係書類」(小沢有作編『近代民衆の記録一〇 在日朝鮮人』新人物往来社、一九七八年に収録、原文書は北海道開拓記念館に所蔵)という文書について見てみよう。この書類は、一九四〇年七〜八月、朝鮮に出張した労働者募集担当の社員が歌志内に残る労務課長宛に提出した現地からの業務報告である。
 ここからは、「割当募集」の段階でも行政機関の職員が労働者の送出に深く関わっていたことが確認できる。
すなわち、八月一二日付の報告は次のように記されているのである。なお、文中に出てくる「面」は日本の村にあたる行政単位、「区長」は地主層(史料では両班の語を用いている)の朝鮮人で、日本内地行き労働者募集に反対していたという背景がある。

 牛谷面、開津面、この両面が果して適格者を二十宛出せるか否か疑問であった訳ですが駐在所面事務所共馬力を掛けて宣伝勧誘に努めてますから希望者が定員を超える見透しは付きました…
 署の高等主任は駐在所へ電話で「此の募集は後で必らず喜ばれる募集であり、警察干係の人も来てること故区長に委せず自分で勧誘すること」と督励してくれますし、郡庁では社会課労務係の主任が明日より郡から面へ手分けして歩き、若し予定人員丈け集まらぬ等と言ふ面あれば他面に割当てると言って嚇かしてやると言ってます様に署及郡庁は非常に力を入れてくれます。又各面長も進んで面の人間を内地に出さうとしてます…〔反対する区長のいるところでは〕区長に委せず巡査及面吏員が歩いてくれる訳です…

 警察署とその命令を受けた駐在所の警官、郡庁の担当者、面長、面吏員が先頭にたって、割当られた朝鮮人労働者の確保に努力していたである。そして、そこで言う「宣伝勧誘」が、一般的な意味での宣伝勧誘であったかは疑問である。まず、宣伝勧誘の業務に警官が当るということが奇妙である。そもそも、民衆の側にとっては、警官が行う宣伝勧誘自体が権力を背景とした脅しと捉えられる性質を持つだろう。
 また、労務動員に先立って施行されていた陸軍特別志願兵制度においては、地方行政機関の関与のもとで、朝鮮人青年を無理に「志願」させることがしばしば行われ、帝国議会ですら問題として取り上げられる状況があった 。労務動員でも、何らかの形で圧迫を加えたり、あるいは甘言詐欺のような言動を弄したりして、割当人員を揃えたこと可能性は高いといってよいであろう。
 ただし、もちろん、この史料だけでは直接的な物理的暴力による労働者の送出があったとまでは言えない。
 だが、思想対策係「半島人問題」という文書(水野直樹編『戦時期植民地統治資料』第七巻、柏書房、一九九八年、に所収、原本は法政大学大原社会問題研究所所蔵の協調会文書)にはこの点をより明確に示す記述がある。この文書は、協調会に設置された「思想対策研究会」のなかで行った警察や企業関係者からの意見聴取をまとめたものと考えられ、成立は一九四四年八月頃と見られる 。この文書で注目されるのは、石炭統制会勤労部長の言葉と考えられる次のような文言が記載されていることである。
 すなわち「朝鮮に於ける募集状況を見るに、曽ては野良で仕事最中の者を集め、或は寝込みを襲ふて連れて来る様な例も中にはあって其の誤れるや甚しい。計画的に募集の準備をして供出することが切に要望される所以である」というものである。
 文書の成立は一九四四年八月頃であり、この時点では朝鮮において国民徴用令の適用は一般的ではない。とすれば、「割当募集」ないし「官斡旋」において物理的暴力による労働者送出が行われたと見て間違いない。
 念のために、さらにはっきりと物理的暴力による連行の実在について記した史料を見ておくこととする。一九四四年七月三一日付、内務省嘱託小暮泰用から内務省管理局長竹内徳治に提出された「復命書」(前掲『戦時期植民地統治資料』第七巻に所収、原本は国立公文書館に所蔵)がそれである。この文書は、「朝鮮民情動向竝面行政の状況」についての調査報告で、公開を前提としたものではなった。文書の性格から考えて事実を糊塗せず、当時の朝鮮社会の実状、朝鮮民衆の生活実態をリアルに把握し伝えていると考えて問題ない。
 この文書は極めて興味深い内容を持ち、詳しく紹介したいのだが 、以下では動員における労働者の送出にかかわる部分のみについて触れる。まず、「四、第一線行政の実情 殊に府、邑、面に於ける行政浸透の現状如何」では、地方末端の行政の問題点が記されており、次の文言が見える。

…民衆をして当局の施策の真義、重大性等を認識せしむることなく民衆に対して義と涙なきは固より無理強制暴竹(食糧供出に於ける殴打、家宅捜査、呼出拷問労務供出に於ける不意打的人質的拉致等)乃至稀には傷害致死事件等の発生を見るが如き不詳事件すらある。
斯くて供出は時に掠奪性を帯び志願報国は強制となり寄附は徴収なる場合が多いと謂ふ

 また、「六、内地移住労務者送出家庭の実情」でも「朝鮮人労務者の内地送出の実情に当っての人質的掠奪的拉致等が朝鮮民情に及ぼす悪影響」云々の文言が見える。さらに、「七、朝鮮内に於ける労務規制の状況並に学校報国隊の活動状況如何」に記された「動員の実情」は次のようなものである。

 徴用は別として其の他如何なる方式に依るも出動は全く拉致同様な状態である
其れは若し事前に於て之を知らせば皆逃亡するからである、そこで夜襲、誘出、其の他各種の方策を講じて人質的略奪拉致の事例が多くなるのである、何故に事前に知らせれば彼等は逃亡するか、要するにそこには彼等を精神的に惹付ける何物もなかったことから生ずるものと思はれる、内鮮を通じて労務管理の拙悪極まることは往々にして彼等の身心を破壊することのみならず残留家族の生活困難乃至破壊が屡々あったからである

 以上の史料から、労務動員計画・国民動員計画にもとづく朝鮮人労働者の充足において、「割当募集」段階から警官や面事務所の吏員らが直接的に労働者送出に関与していたこと、国民徴用令適用以外の動員形態においても、物理的な暴力を加えたり、拉致という表現されるような形態によったりして、本人の意思とは無関係に労働者を連れて来るケースがあり、それは決して無視できるような例外的なものではなかったことがわかる。
 なお、国民徴用令が適用による動員の場合暴力的な動員があったかどうかはこれまで見た史料からは判断を下すことはできないが、朝鮮における労働力の枯渇が進み労務動員に対する民衆側の忌避傾向が強まったであろうことを考慮するならば、とうてい、暴力的な動員がなくなったとは考えられない。また、これまで見てきた史料から、朝鮮人の戦時動員と日本人の戦時動員の実態に明確な差があったことについても確認できよう。

おわりに

 以上から、「朝鮮人強制連行」が、事実を誇張したり、歪曲したりした上で造りだされた政治宣伝の用語ではなく、むしろ、実態や本質を的確にとらえたものであることを確認することができた。第二次世界大戦下の朝鮮において、暴力的な動員はなかった、ないしはごく例外的なケースだったという主張が成り立たないことは、これまで紹介した史料から明らかである。
 付け加えておけば、「つくる会」は「日本政府が第二次大戦中、『強制連行』を指令した文書をお示しいただきたい」と大学入試センターに要求しているが(前記の「公開質問状」)、この要求は意味をなさない。
 行政機関に所属していた者で直接的に動員する労働者の選定、送出に関与したのは、末端の地方行政機関の職員や駐在所の警官である。彼らが行った暴力的な行為が、文書にかかれた具体的な指令にもとづいたものである可能性は低い。むしろ、上部の指令や意図を貫徹するためにはいかなる手段をとってもよいという思考が彼等に浸透しており、しかも行政当局者が朝鮮人に対して、その人格を無視し人権侵害をしても許されるかのような実態があったがゆえに、彼ら自身の判断で暴力な行為に及んだことが推測される。
 したがって、今後さらに強制連行の実態についての理解を深めるには、第二次世界大戦下の朝鮮社会の状況、地方末端の行政の実情や警察関係の史料、治安関係の報告の史料等を幅広く調査、収集する努力を重ね、それを検討することが必要となる。
 その点は、もちろん、すでに知られている史料の再検討、公文書館等での調査を通じた史料発掘を通じて行わなければならない。しかし、おそらく未公開の史料、保管されながら一般には知られていない政府関係文書等も存在すると考えられる。日本政府は、史料の調査公開の責任を有するであろう。
 もう一つ、これは自戒を込めて言うのであるが、この分野の研究状況の問題についても述べておきたい。朝鮮人強制連行に関する個別の事例発掘とその発表は近年、盛んに行われている。しかし、いわゆる市民グループの活動に比して、研究者の側のこの問題に対する取り組みは活発ではないように見受けられる。
 すでにもう十分に研究され尽くしているのか、と言えばそうではないはずである。例えば、朝鮮人戦時動員の法制度的な事実関係の整理、時期的な変遷についてもより厳密になされなければならないし、それを体系的に把握することも必要である。あるいは、動員する朝鮮人の選定、送出過程や労務管理の事例について微視的に捉えていくことも不足しているし、それを比較し総合的に捉えることをめざす必要もあろう。
 付言しておけば、研究状況に規定されているのか、近年出版された歴史辞典や年表、朝鮮史の概説書等における、朝鮮人強制連行関係の記述は細かな間違いを含んでいたり、誤解を与えかねないものであったりするケースが少なくなく、遺憾である。
 朝鮮人戦時動員の問題は、考えてみれば、朝鮮に対する植民地支配とは何であったかを集約的に表すものである。植民地朝鮮の権力機構が具体的にどんな力を持っていたか、朝鮮民衆をどのように動かすメカニズムはいかなるものであったのか、日本国家は朝鮮、朝鮮人に何を望んだのか、日本国家の要求はどのようにして実行され得ることとなったか、あるいはそこではどんな矛盾が生じていたのか等々の一端が、朝鮮人戦時動員という具体的な問題の検討を通じて明らかにされる可能性があろう。その意味でもこの問題について研究することの重要性をあらためて強調しておきたい。


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