朝鮮人強制連行
―研究の意義と記憶の意味―

■はじめに

 エスニックグループのアイデンティティ形成・維持において、その集団に関わる歴史の記憶が果す役割は大きい。
 在日朝鮮人も例外ではない。したがって、在日朝鮮人の歴史について一般の人々がどのように考えてきたか、歴史研究者たちが、いかなる歴史事象を強調し、どのように評価してきたか等々についての考察は、在日朝鮮人のアイデンティティのあり方との関連において重要である。
 したがって、在日朝鮮人がどのような歴史研究を進め、歴史認識を確立してきたかは、それ自体が歴史研究のテーマとして重要なものとなり得る。
 ところで、在日朝鮮人のアイデンティティに関する発言を活発に続けてきた鄭大均氏が今年に入って発表した著作『在日・強制連行の神話』文芸春秋、2004年、は前記の問題に関わる記述を多く含んでいる。鄭大均氏の見解を要約すれば次のようである。すなわち、今日の在日朝鮮人の多くは「強制連行」の契機で日本にやって来た人々やその子孫ではない。しかし、これまで歴史認識において「朝鮮人強制連行」が強調され続けてきた。これは、「革命の輸出」を図ろうとしていた北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の指導のもとに動く朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会)の政治的思惑に動かされた在日朝鮮人歴史学者がまとめた"いかがわしい"研究の影響が大きい。左派系の日本人がそれに動かされ、80年代にメディアにおいてそれが流布されたなどによって、「強制連行」の結果としての在日朝鮮人の形成という「神話」が広まった。その影響は今日でも残っており、一部の在日朝鮮人文化人たちは「強制連行」をしばしば語り、被害者性をことさらに強調しているが、そこに依拠して自らのアイデンティティを築くことは、在日朝鮮人自身にとっても幸福なことではない。以上が鄭大均氏の見解である。
 後に明らかにするように、鄭大均氏の見解は明らかに誤りを含む。これは筆者の見るところ、鄭大均氏が誤解を持つに至った理由の一つは、その時代の状況を踏まえながら史料を丁寧に読み込んでいくという作業を行っていないことにある。そもそも、氏の論考には、在日朝鮮人の歴史に関する基本的な知識の欠如を露呈しているような部分もあり、全体として粗雑な印象を与えるものとなっている(※1)。
 しかし、より根本的な問題としては、次のような点がある。すなわち、鄭大均氏においては、個人の生活やそこから生み出される思想的営為を基礎に据えて歴史を理解しようという方法が取られていないことがある。氏の分析においては、様々な個人も、ある種の国家の利益のみに忠実に活動したり、政治党派の方針のままに動かされたりするというという発想のもとに進められているのである。
 もちろん、ある種の国家の政策や政治党派のイデオロギーが個人の考えや行動に強い影響を及ぼすことはありうる。だが、ある種の政治党派の主張や国家への忠誠を選択したとしてもそこには個人の体験から導き出される思いが反映されている場合もあろう。また、一見、政治党派のイデオロギー的言説に即して展開されているように見える主張や、自らの属する国家の公式見解に沿った言動のなかにも、個人の考えが盛り込まれている場合もある。
 そこで、以下では、戦後における在日朝鮮人史に関する認識の変遷を在日朝鮮人のおかれていた状況に着目しながら考察していくこととする。その際、特に、在日朝鮮人歴史研究者がいかなる思いを持って「強制連行」の事実を発掘する作業に取り組み始めたかや、なぜ特に「強制連行」の契機が強調されたのかについて明らかにしていくこととする。

■戦後初期の朝鮮人労務動員に対する認識

 日本帝国が、1930年代末から1945年にかけて、燃料等の確保や軍需物資生産、軍事基地建設のために朝鮮人労働者を多数動員したことは、誰も否定することのできない事実として認識されている。同時に、その際、本人の意思に反して暴力的に労働現場に連れて来れられたり、就労先で奴隷的な労働を強いられたケースがあったことも広く認められている。近年、一部でそうした事実がなかったか、あるいは限定的な現象であったかのような主張がなされているが、それは無知によるものでなければ悪質なデマと言わざるを得ない。この間の歴史研究では、戦時下における朝鮮人に対する暴力的な労働現場への配置や奴隷的な労働の実在については、関係者の証言のみならず、それを裏付ける同時代の史料も発掘されているのである(※2)。
 もっとも、この歴史事実について「朝鮮人強制連行」の語が用いられ、広く日本社会において知られるようになったのは、それについての本格的な研究が提示された1960年代以降である。
 しかし、このことはもちろん、その事実が1960年代まで、あまり知られていなかったり、人々の意識の俎上にのぼらなかったことを意味するのではない。
 まず、朝鮮人にとっては戦時下の労務動員は、日本帝国のとった政策のうちでも、とりわけ多大の苦痛をもたらしたものとして考えられ、しばしば言及されていた。
 日本敗戦からまだそれほど時間が立っておらず、朝鮮人による国家建設に向けた具体的な動きや民族団体の活動が、まだ充分ではなかった時期においてもそのことは確認できる。つまり、国家の教化や体系化された歴史教育によってではなく、個人の体験、見聞から、朝鮮人労務動員の暴力性は認識されていたのである。
 例えば、千葉県警察部特別高等課『昭和二十年・内鮮報告書類編冊』中の、一九四五年九月二八日付、東金警察署長から千葉県知事宛「終戦後の朝鮮人取扱に対し極度の不平不満に関する件」という資料には(※3)、特に民族主義的な意識が強いとは思われない(むしろ、日本帝国の施策に協力してきていた)ある朝鮮人が次のように語っていたことが記されている。

…而して大東亜戦争勃発と同時に移入労働者を徴用するに当り、田畑より看守付きで而も自宅に告げる事なく内地の稼動場所へと強制労働に従事せしめた事である。然し乍ら朝鮮人も日本人である以上大東亜戦争をして有終の美を得せしむべく不可能なる労働を可能ならしめ戦力の増強に寄与したる点は内地人に劣らざる事を確信するものである。

 また、一九四五年一二月八日に『京城日報』に掲げられた、戦争中に朝鮮民衆が受けた被害を批判した漫画風の絵でも、志願兵の強要や、食糧供出と並んで、「強制徴用」が描かれている(『京城日報』はもともと朝鮮総督府の「御用紙」的立場にたつ日本語紙であったが、敗戦後、日本人社員が退社した後、朝鮮人社員によって日本語を用いたまましばらく刊行を続けていたものである)。
 このように、労務動員の過酷さは強く記憶されていたのであり、当然、戦後、まとめられていく歴史書においてもその事実は記載されることとなった。もっとも戦後日本で最初にまとめられた日本語による朝鮮近代史の通史である、金斗鎔『近代朝鮮社会史話』郷土書房、1947年、では、「徴用で連れてこられた」朝鮮人に対する虐待について言及されていた。さらに、在日朝鮮人の形成過程についてまとめた、最初の論文である、林光K「渡航史―並にその性格―」『民主朝鮮』一九五〇年七月号、でも「太平洋における帝国主義戦争が始ってから朝鮮の青年が徴用労働乃至は勤労動員という名目で数え切れぬ程日本え強制的に連行されたことは記憶に新しい」と記されていたのである。
 以上は、在日朝鮮人運動にも大きく関わった朝鮮人歴史研究者の言説であるが、日本人の間でも、戦時下における労務動員の実態について認識されていたし、その暴力性についても認定されていたことが確認できる。 例えば、宇垣一成朝鮮総督の側近であり、京城日報社社長を務めたという経歴を持つ、つまりは朝鮮植民地支配に深く関わった人物である、鎌田沢一郎が記した、『朝鮮新話』創元社、1950年、には、労務動員において「郡とか面(村)とかの労務係が深夜や早暁、突如男手のある家の寝込みを襲ひ、或ひは田畑で働いてゐる最中に、トラックを廻して何げなくそれに乗せ、かくてそれらで集団を編成して、北海道や九州の炭鉱へ送り込み、その責を果すといふ乱暴なことをした」事実が述べられている。
 また、日本政府においても、朝鮮人労務動員の暴力性に対する認識はある時期まで存在していた。この点について興味深いのは『在日朝鮮人処遇の推移と現状』法務研修所、1950年、の記述である。この資料は、法務省職員に必要な訓練を行う機関であった法務研修所の「法務研究報告」のうちの一冊としてまとめられ、当時、法務省に所属していた森田芳夫が執筆したことが知られているものである。その意味では、日本政府の公式見解の性格を持つものではなく、一般に公表されたものでもない。しかし、これは在日朝鮮人に対する施策に関わる職員を含む法務省職員の参考に供されたものであり、そこにおける記述は、そうした職員が持つべき認識についての日本政府の考えを示したものということができる。
 同資料では在日朝鮮人の形成史と政策との関係について説明がなされており、当然、労務動員に関する記述がある。そして、そこにおいては1939〜45年年の労務動員について「日華事変以後の戦時体制下にあって、政府は、朝鮮人を集団的に日本内地に強制移住せしめる策をとった」(17頁)、労務動員の対象となった朝鮮人には逃亡者が多かったがその理由は「労務管理の不当であったこと、また契約期間の延長で安定しないことがおもな原因」であったことも述べられている(20頁)。なお、契約期間の延長云々とは、当初の契約期間が過ぎても帰郷させずに労働を強いたことを意味すると思われる。具体的な「強制」のあり方や労務管理の「不当」さを詳細に述べているわけではないが、前記のような文言は、朝鮮人労務動員が本人たちの意思に反し暴力的なものであったことを、少なくとも否定したものではないことは確かである(※4)。

■植民地支配責任を曖昧化した日本政府

 ところが、その後、日本政府の刊行物や声明等においては、戦時下の朝鮮人労務動員における強制性や暴力を想起させる文言はまったく見られなくなってしまう。同時に、日本政府が在日朝鮮人について言及する際、自発的に渡日してきた人々とその子孫が大半であることが強調されるようになったのである。
そのような日本政府の説明のもっとも早い段階の例として確認できるのは、法務省入国管理局が主体となってまとめられ、1959年5月に刊行された『出入国管理とその実態』(「入管白書」として通称される行政刊行物)である。「入管白書」はその後、発行主体やタイトル等に変遷があるが、1970年代のものまでは在日朝鮮人の形成史に関する説明があり、前記の記述が踏襲されている。
また、北朝鮮帰国事業に関連して、1959年7月に発表され、一般の新聞でもその内容が紹介された「在日朝鮮人の渡来および引揚げに関する経緯、とくに、戦時中の徴用労務者について」という文書も同様の説明となっている。『朝日新聞』1959年7月13日付記事によれば、それは次のようであったとされている。

一、 戦前(昭和14年)に日本国に住んでいた朝鮮人は約100万人で終戦直前(昭和20年)に200万人となった。増加した100万人のうち70万人は自ら進んで内地に職を求めてきた個別渡航者とその間の出生によるものである。残りの30万人は大部分工鉱業、土木事業の募集に応じてきた者で、戦時中の国民徴用令による徴用労務者はごく少数である。また国民徴用令は日本内地では昭和14年7月に実施されたが、朝鮮への適用はさしひかえ、昭和19年9月に実施されており、朝鮮人徴用労務者が導入されたのは翌年3月の下関―釜山間の運航が止まるまでのわずか7ヵ月であった。

一、 終戦後、昭和20年8月から翌年3月まで、希望者が政府の配給、個別引揚げで合計140万人が帰還したほか、北朝鮮へは昭和21年3月、連合国の指令に基く北朝鮮引揚計画で350人が帰還するなど、終戦時までに在日していた者のうち75%が帰還している。戦時中に来日した労務者、復員軍人、軍属などは日本内地になじみが薄いため終戦後、残留した者はごく少数である。現在、登録されている在日朝鮮人は総計61万人で、関係各省で来日の事情を調査した結果、戦時中に徴用労務者としてきた者は245人にすぎず、現在、日本に居住している者は犯罪者を除き、自由意思によって在留した者である。

 以上のような日本政府の説明は、さすがに事実をねつ造して述べたものではない。戦後、日本に継続して居住した朝鮮人のなかで、戦時期の労務動員政策が直接の渡日の契機となっていた者やその子孫は相対的には数が少ないことは確かである。そして、自己の意思によって渡日を選択し継続して日本に住み続けた朝鮮人が存在することも間違いではない。
 しかし、前述のような日本政府の説明は、明らかに植民地支配の問題を曖昧にし、忘れさせる作用を持つ文章となっていると言わざるを得ないだろう。
 例えば、戦時期の労務動員政策とは直接関係のない朝鮮人の渡日においても、朝鮮が植民地に置かれていたことの影響があったことは触れられていない。「自ら進んで内地に職を求めてきた」者においても、植民地政策の影響による経済的苦境が背景となっているケースがあったり、日本人の詐欺的な募集活動が行われていたことなどは述べられていないのである。
 同時に、相対的に少数にせよ戦時期の労務動員の結果、日本に住むようになった朝鮮人も存在するわけであるが、その労務動員がしばしば暴力的で強制性を伴っていたことについては、それを示唆するような文言すらないのである(※5)。そして、日本政府が在日朝鮮人の歴史について言及する際のそのような態度は、今日まで継続している。つまりは、前述の1955年の『在日朝鮮人処遇の推移と現状』において述べられていた朝鮮人労務動員の「強制」性や労務管理の「不当」性を、日本政府は(否定はしないにせよ)、極力、隠蔽するようになったのである。

■戦後歴史学における植民地問題の欠落

 以上のような状況をふまえるならば、1950年代において、植民地支配の過程で生じた様々な問題を歴史研究者が取上げ、研究として発表していく作業は極めて重要な意味を持っていたと考えられる。しかし、この時期、日本人歴史学者においては、自国の行った植民地支配の問題についての認識は希薄であった。この点は、植民地支配や天皇制を下支えする役割を果たした戦前の研究について反省した上で新たな研究を展開しようとしていた戦後歴史学の潮流に位置する者も例外ではなかった。
 と言っても、朝鮮人が労務動員のために被害をこうむった事実を意図的に隠蔽したり、無視したりする研究動向が存在したというわけではない。そうした事実は、戦後、日本人によって新しく書かれた朝鮮史や日本近現代史の著作にも盛込まれていた。だが、論述のなされ方を見るとき、やはり、民族的差別や植民地という状況に規定された問題についての充分な認識があったとは考えられないのである。
 例えば、戦後の朝鮮史研究をリードし、植民地支配の反省を確立するための発言も積極的に行うようになる、旗田巍が記した『朝鮮史』岩波書店、1951年、の記述を見てみよう。同書の223〜224頁では、戦時下朝鮮における様々な動員政策があり、朝鮮民衆が「ひたすら日本の戦略的要請の前に絶対服従が強要された」と指摘した上で、次のように記している。

 1941年に日本が太平洋戦争に突入してからは右の傾向は一層強められ、1942年には朝鮮に徴兵制が施行された。従来の志願兵制度がいまや強制的徴兵制に発展したことは朝鮮に対する日本の要求の集中的表現である。学徒動員・徴用・訓練など、日本におけるものと同様のことが、何の発言権もない植民地の民衆に適用された。

 この説明からは、日本人に対する労務動員・軍事動員よりも朝鮮人に対するそれにおいて、しばしば剥き出しの暴力が用いられた事実を認識することはできない。だんだんと朝鮮人に対しても日本人なみの制度を適用して動員していった、ということがわかるだけである。
 あるいは、朝鮮人や中国人の労務動員について補足的な説明しかしていない著書も見受けられる。歴史学研究会編『太平洋戦争史W 太平洋戦争後期』東洋経済新報社、1954年、における、労務動員についての説明は、「兵士を除いて働ける国民の最後の一人までも、戦時食糧生産に必要不可欠の人力にさえも食いこんで、軍需生産に動員された。その労働力補充の第一の源泉は依然として農村人口であり、また没落させられた中小企業従業員、都市小ブルジョアジーの下層であった」と指摘した上で、一般的な労務動員制度の変遷を述べていくということが主となっており、いわゆる日本人以外の労務動員に関しては、最後に「また朝鮮人も多数ひっぱってこられた。1945年の炭坑労働者総数約41万2000人のうち13万6000人は朝鮮人であった。中国人もはるばる日本へ狩り集められて、炭鉱・鉱山等で文字通り奴隷労働に死ぬまで働かされた」との文章が付け加えられるといった程度にとどまっていたのである(75〜78頁)
 以上からは、戦時下の労務動員における日本人と朝鮮人、中国人のおかれた状況や待遇等の差、あるいはそこからくる朝鮮人、中国人に対する動員に関わる問題の深刻さは、この時期の日本人歴史研究者に充分認識されていなかったことが確認できるだろう(※6)。

■本格的研究の隘路となった朝鮮人の民衆意識

 以上のように、日本人歴史研究者たちはしばしば労務動員における民族的な差、植民地問題の契機を無視していた。しかし、戦時下、日本人たちもまた軍部の横暴によって多大な苦痛を強いられたことの記憶が強烈であったろうし、そもそも他者の置かれていた状況について想像を働かせることはなかなかに難しい作業であることを考えれば、この時期、植民地下の朝鮮人の状況、朝鮮人労務動員についての研究が十分ではなかったことはそう不思議なことではないとも言える。
 むしろ、疑問として提出されるべきは、在日朝鮮人側の動向であろう。つまり、日本人に問題の重要さに目を向けさせる研究がこの時期まではなぜ、在日朝鮮人においてなされていなかったのか、前述のように戦後直後から朝鮮人労務動員の暴力性は広く認識されていたにもかかわらず、専門的な研究者によってどうしてその事実解明がなされなかったのか、という点を検討する必要がある。
 この点については、おそらく歴史研究を行い得る人材が在日朝鮮人の間でそう多くなかったことや、政治的不安定さのなかで在日朝鮮人の知識人たちが歴史研究に没頭することができなったことが関係していると思われる。
 しかし、そのようないわば物理的な問題以外の理由もあるだろう。その一つは、"栄光の歴史"ならざる被圧迫の歴史を記録することに朝鮮人自身がそれほど意義を感じなかったことがある。同時に、もう一つ、朝鮮人労務動員においても、朝鮮人内部の複雑な矛盾や日本国家への協力の問題が存在していたことがこの問題の掘下げを困難にしていたのである。
 1962年の時点における、朴慶植の次のような記述は、朝鮮人労務動員に関する研究を難しくしていたこのような状況の存在を物語るものである。

 現在、在日朝鮮人の一部にも過去について語らない人々がいる。それにはいろいろの理由のあるところであろうが、先ず、第一に過去において自己の圧迫され、非人間的に虐待されたことにたいする嫌悪感、ないしは問題意識の欠如等からくるものもあるようだし、第二には過去、鉱山、土木工事現場等で飯場をやったり、親方をやったりして、それにたいする自己の罪悪感からくるものもある(※7)。

■民族団体の消極的態度とその思想的背景

 以上のような在日朝鮮人民衆の意識とともに、労務動員政策に関わって朝鮮人が受けた被害を明らかにする作業の展開を考える際に検討しなければならない点として、民族団体の動向がある。
 ごく単純に考えれば、民族団体は、民族主義を基盤とする組織であり、日本帝国主義の加害の具体的究明について積極的であったはずのように思える。おそらく、特に社会主義圏に属する北朝鮮に連なる朝鮮総連は日本国家を批判する目的で過去の事実をいろいろ暴き立てたはずだ、と考える日本人も多いだろう。実際に、鄭大均氏や日本のナショナリストたちは、「朝鮮人強制連行」の研究は、日本国家を糾弾し攻撃しようという北朝鮮の政治的思惑にそって朝鮮総連に属する研究者=朴慶植がはじめたと主張している。
 確かに、朴慶植は1955年の朝鮮総連結成当時からその組織に属しており、精力的な歴史研究の活動を開始した時には、朝鮮総連系の朝鮮大学校に勤務していた。そして、『朝鮮人強制連行の記録』を見れば、朝鮮民主主義人民共和国の現状認識、主張を基礎としている文章も散見される。
 だが、筆者の知る限り、北朝鮮・朝鮮総連の組織的な指示や方針に沿って朴慶植が『朝鮮人強制連行の記録』を発表した事実はない。むしろ、朴慶植から筆者が聞いたところによれば(※8)、同書の出版やそこに結実することになる一連の研究は、それを止めさせようとして様々な圧力にもかかわらず行われたのである。ついでに述べておけば、当時、朴慶植が朝鮮総連や朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の見解に大枠では賛同していたことは間違いないだろうが、組織内部で出版の許可を取付けるために、本意ではないにもかかわらず、北朝鮮や朝鮮総連関係の文章を入れた部分もあったようである(確か、あとがきにおける「私の所属している在日本朝鮮人総聯合会の結成10周年で、これまでの私の調査したものをまとめて祝賀に代えたい考えもあり、未熟さをもかえりみず、敢えて刊行するにいたった」との文言や朝鮮民主法律家協会の声明全文を入れたことは、本意ではなかった旨を朴慶植は語っていたように筆者は記憶している)。
 さらに、そもそも朴慶植は、朝鮮総連のなかで冷遇されていたグループに属していたことも踏まえておく必要がある。1955年、在日朝鮮人は朝鮮民主主義人民共和国の在外公民であるという立場を明確に打出した民族団体としての朝鮮総連が結成された際、それを積極的に推進したグループがその後も朝鮮総連のいわば主流派を形成した。そのグループは先覚派と称されたが、それとは異なる、つまりは非主流派と言うべきグループが存在していた。これは後覚派と呼ばれ、朴慶植や、彼とともに歴史研究を進めていた姜在彦、あるいは文学者の金達寿らはそこに属すると目されていた。ちなみに、朴慶植、姜在彦ら後覚派の研究者が集った朝鮮研究所は、朝鮮総連の指導によって解散させられるという憂き目を見ている(※9)。
 では、このような朝鮮総連主流派による朴慶植らへの冷遇、とりわけ労務動員の過程における朝鮮人の被害の事実発掘作業への抑圧という態度はどうして生じたのであろうか?
 あるいは、 「朴慶植は組織に従順なタイプの人間ではなかった」といったレベルのことで、本質的に重要な対立はなかったと見るべきだろうか?(※10
 筆者はそうではなく、朝鮮総連主流派=先覚派と朴慶植ら後覚派との間には、感情的対立といったレベルではなく、明確な思想的な分岐が存在していたと考える。そして、その思想的分岐とは具体的には日本人との関係をどう築いていくかや、それと関連しつつ植民地期の歴史をどのように捉えるかをめぐってのものであり、それが朝鮮総連主流派による植民地期の被害についての歴史研究への圧迫と関係していたのである。
 より具体的に述べていこう。まず、日本人との関係に関しては、朝鮮総連主流派はこの時点でももちろん在日朝鮮人の生活安定のためにも良好な民族関係が保たれることを望んでいたと見てよい。
 ところが、当時の日本社会を覆っていたのは、朝鮮人に対する剥き出しの排外主義であった。"朝鮮人は厄介者である""自分の国に帰るべきだ""日本の治安を攪乱している""生活保護をもらって日本の血税を食っている""民族学校では反日教育をやっている"といった論調の記事が一般紙に掲げられることも珍しくないような状況がこの時期存在していたのである。そのような状況に向き合うとき、在日朝鮮人にとっては二つの選択があったと考えられる。一つは、排外主義が激化しないよう、日本人をなるべく刺激しないようふるまうことに専念するというものであり、もう一つは日本人の思想の根本的な変革を迫っていくというものである。
 そして、後者の方向を目指した朴慶植らと異なり、朝鮮総連主流派は前者の路線を選択したのである。これはそもそも1955年に朝鮮総連が結成された際に「内政不干渉」を強調していたことや、現在に至るまで、朝鮮総連という組織が前面に出る形で、植民地期における朝鮮人がこうむった様々な被害の調査、告発の運動を展開したことはなく(もちろん、朝鮮総連系の団体や活動家が日本人とともに「朝鮮人強制連行強制労働」の真相調査を行うといったことは続けられてきたが)、むしろキャンペーンを展開してきたのは「日朝友好」を掲げるものであったことからも明らかである。
 以上を踏まえれば、朝鮮総連主流派が朴慶植らの研究を抑圧した理由の一つは明らかであろう。朝鮮総連主流派は、朴慶植らが行っていた日本帝国主義の加害の事実発掘という作業が、日本人を刺激し、排外主義の矛先を自らの組織や在日朝鮮人一般に向ける契機となりかねないと考えたのである。
 次に、もう一つの分岐、つまり歴史をどう捉えるかをめぐる問題について説明しよう。これについては、朴慶植と同じく後覚派と目された金達寿が書いた『朝鮮―民族・歴史・文化―』岩波新書、1958年、をめぐる朝鮮総連主流の批判、それへの金の反応が、両者の考え方の相違点を明確に見せてくれている。
 朝鮮の歴史や文化全般を取扱ったこの本に対する、朝鮮総連主流派の批判の主な論点は金日成の革命業績があまり記されていないとか、「ブルジョワ文学体系」であるといった類のものであった。しかし、この点に関わる論議はあまり重要ではない(金日成の革命業績を強調する、といったことはいわば約束事なので、深い思想的論戦が行われるはずはなかったのである)。
 注目したいのは、金がこの本のなかで記した、戦時下における朝鮮・開城旅行の際の体験をめぐるやり取りである。
 金は、開城がかつての高麗の都であり、植民地下においても朝鮮人が商権を握っており、人々が民族的誇りを持って暮らしている、ということに興味を覚えそこを訪ねて見た。だが、金達寿は日本で長く暮らしたために文化的に「日本化」しており、しかも当時、朝鮮総督府の御用新聞社である京城日報社の記者であった。そのために金は、実際に開城を訪ねた時、そこの朝鮮人たちの冷たい視線や猜疑、つまり、日本人が来たのではないか、というような眼を向けられたような気になり、食堂に入ったものの、「貰い飯をでも食うようにして急いで飲み下し」帰って来た、というのが、この本で紹介されている自らの体験である。
 この部分を捉えて、朝鮮総連主流派に属する人物の一人である白宗元は、次のように金を揶揄していた。すなわち、「〔金達寿は〕日本帝国主義に強い反感をもつ開城市民のなかで、開城市民から勇気づけられるどころかかって『貰い飯をでも食うようにして急いでのみ下した』という卑屈な感情にとらわれている」と。
これに対して、金達寿は次のように述べた。

 まさにそのとおり、私は「卑屈な感情にとらわれ」たものだった。白や金鐘鳴たちはそのころ、どこでどんなふうに勇気リンリンとしていたか知らぬが、当時23歳であった私は、その開城市民の「海の沈黙」のような抵抗の姿を目の前にして「卑屈な感情にとらわれ」ずにはいられなかった。
しかしながら、白宗元よ、と私はいいたい。私はいま日本のなかにあって、一人の朝鮮人としてこの『朝鮮』を書くという、ひとつの主体的な行動をおこなったその主体性は、こうした「卑屈」から出発しそういう「感情にもとらわれ」たことで、やしなわれてきたものなのだ。これは、一度もそういう経験をしたことのないらしい、きみたちにはわかるまい(※11)。

 金達寿のこの文章からは、植民地政策が自らの主体にも深刻な影響を与えたことを直視しようとする態度を確認することができる。つまり、朝鮮語を満足に話せないほどに同化し日本帝国の朝鮮支配に協力する立場に組込まれていた自らについて、痛苦な思いを持って記憶していた。さらに言えば、金達寿にとって、それは簡単に忘れてしまえるような過去ではなかったのである。なぜなら、8・15解放後も、日本で生活し日本語で文学活動を行っていた金達寿にとっては、自らの主体に刻印された植民地支配政策の影響を常に意識せざるを得なかったはずだからである。
 逆に、開城での金達寿の行動を嘲笑する者は、自らの主体に即して植民地支配の問題を考える態度は見られず、同時に、植民地政策が朝鮮人個人の主体にまで影響を及ぼす可能性を持つものとして捉えてはいなかったと考えられる。あるいは、そのような側面は意図的に無視されている。いずれにせよ、植民地期に受けた朝鮮人の被害を深刻なものとして捉える度合いは、相対的に薄かったのである。植民地期の朝鮮人たちが悲惨な境遇に置かれていたことをもちろん否定するわけではないが、それは現在と関わりを持つ重要な問題として見ることは少なかったと考えられる。
 そうした見方をする者においては、労務動員に関わる人権侵害をはじめとする朝鮮人が植民地期にこうむった被害を詳細に明らかにする作業は意義あるものとして理解されなかったはずである。
 付言すれば、朝鮮総連指導部は『朝鮮人強制連行の記録』に結実することとなる研究調査を行っていた朴慶植に対して、次のような言葉を述べていたという。すなわち、"今は金日成主席の指導のもとで朝鮮人民が幸せに暮らしているのに、過去の植民地の悲惨な歴史をわざわざ掘起こして提示する必要はない"というものである(筆者が朴慶植から直接聞いた話であり、やや表現は異なるかもしれないが主旨は間違っていないはずである)。
 なお、民族団体は周知のように、朝鮮総連のほかに韓国民団がある。しかし、韓国民団もまたこの時期、日本帝国主義の加害の事実を具体的に明らかにする作業を組織としては展開していない。これは日本人の排外主義への懸念もあるだろうが、同時に「親日派」との関係が大きかったと見られる。韓国民団の幹部には、権逸をはじめ日本帝国の侵略戦争や皇民化政策を下支えした者が含まれており(※12)、植民地期の歴史の掘起こしは組織にとって不都合な事実が明らかになる恐れがあったのである。

■『朝鮮人強制連行の記録』が訴えたもの

 以上を踏まえれば、『朝鮮人強制連行の記録』の執筆、刊行を行った朴慶植は、当時、極めて孤独な立場にあったことがわかるだろう。日本国家のみならず、「進歩的」とされた日本人の歴史学者とも異なる場所にいたばかりではなく、在日朝鮮人運動の主流の動きとも離れたところに位置していたのである。
 そして、朴慶植がなぜ、ほかの人々と異なり、植民地期の朝鮮人の受けた被害を詳細に調査し、発表する行動を取ったかということも、これまで述べてきたことを踏まえつつ、あわせて朴個人が置かれてきた状況を考えることで理解可能となる。
 この点について具体的に述べれば、まず、朴にとって日本帝国主義による抑圧の歴史は自らとも無縁ではないものとして捉えられていたはずである。朴は軍事動員や労務動員によって危険な目にあったり奴隷的労働を強いられた経験を持つわけではない。しかし、1922年生まれである彼は、軍事動員や労務動員で命を落としたり、非人間的な扱いを受けた人々と同じ世代である。したがって、当然、軍事動員や労務動員の被害者たちについて見聞きしていたであろう。朴にとっては戦時下、日本帝国が行った朝鮮人に対する様々な加害は他人事として片付けるわけにはいかなかったのである。
 同時に、そのような歴史を同時代と関係のない"終わったこと"として見るわけにはいかないことを朴は自覚していた。これは労務動員で日本に来ていた朝鮮人の遺骨が返還されるあてもなく放置されている状況や植民地支配の諸政策の影響で家族の離散を強いられた人々に接していただけでなく、やはり自分自身の主体にかかわる問題として捉えられていた。そもそも、戦後、(朝鮮戦争と朝鮮の分断状態の継続という契機が大きく関わるわけであるが)朴自身も親と離れ離れとなっていたのである。
 さらに、朴においては、植民地から解放された後も、自らの主体に日本帝国の諸政策の影響が残っていることが問題として認識されていたと見られる。7歳の時点で朝鮮を離れ日本で育った朴は、解放後、民族団体に出入りすることで朝鮮の歌などの文化に接し、朝鮮語を学ぶようになった。しかし、当たり前だが、朴自身は朝鮮語より日本語のほうが流暢であった。このこと自体が、大枠において朝鮮の植民地化の所産であることを(さらに言えば、そうしたことに無自覚な日本人に囲まれて暮らしているがゆえに)朴は意識せざるを得なかったはずである。
 なお、もちろん、日本帝国の加害の歴史が現在にも関係した問題であるという見方は、日本国家が植民地支配への反省を明確にしないまま韓国との国交を樹立しようとしていた同時代の状況が大きく関係していることは間違いない。
 そして、以上を踏まえるならば、朴慶植が『朝鮮人強制連行の記録』によって、何を訴えたかったかは明白であろう。彼は、「進歩的」歴史学者も含めた日本人に対して植民地問題を具体的に見据え過去の歴史についての反省を確立することを求めたのである。
 念のために言っておけば、これは不遇な自分のルサンチマンの吐露といったものではない。『朝鮮人強制連行の記録』での朴の記述においてしばしば見られるのは、自分の苦しみは朝鮮民族全体の苦しみであると受け止めるような態度である。例えば、126〜127頁にかけては、自分の両親の差別を受けながらの暮らしや、解放後両親と生き別れたこと、さらに自分が父母の死に目に会えなかったことの記述に続けて、次のような文章が記されている。

わたしは何日も沈んだ心を抱きながら、日本に住んでいる朝鮮人のことを考えた。わたしのような境遇の人々がどんなに多いことであろうかと。いやわたし以上の悲劇を背負った人々が多いに違いない。

 そして、そのような民族全体の苦しみを和らげるために歴史研究の立場から寄与することがこの著書の目的であったと考えられる。つまりは、日本人の間でかつての植民地支配への反省が確立されることが日本人と朝鮮人との友好的な関係を生み出す基礎であり、そのことが引いては南北朝鮮の統一や東アジアの平和と安定、家族の離散状態を解消にもつながると信じて、朴は『朝鮮人強制連行の記録』を送り出したのである。この本の前書き、特に「わたくしは朝鮮と日本の友好親善と連帯をより強化するための一つの材料として本書をまとめてみた」との一文はそうした朴の思いが集約されたものであると言える。
 そして、在日朝鮮人の形成過程や戦時下の動員政策の体系、実際に様々な被害にあった朝鮮人の証言などで構成されているこの本は、日本国家の政策展開とそれによって朝鮮人が受けた被害の実態の双方を具体的に知ることができるものとなっており、植民地支配の問題への視座を欠いてきた日本人に大きなインパクトを与えた。
 もちろん、『朝鮮人強制連行の記録』が完全無欠の本であるというわけではない。すでに金英達によって統計数字の読みの誤りがあることなどが指摘されており(※13)、また、当時、朝鮮総連に属していたという組織的な制約を割引いても、朴の北朝鮮や社会主義に対する認識に甘い面があったことも確かであろう(※14)。しかし、そのような点を含みながらも、なお、在日朝鮮人の形成史、生活史や戦時下の朝鮮人に対する動員政策を学ぶ際に参照にし得る水準の本となっている。また、この本からは、戦後の思想状況や歴史研究の展開がどのようなものであったか、あるいは、この時期、在日朝鮮人にとって日本社会の思想状況はどう捉えられていたか、といったことを読み取ることも可能である。そうしたことから、今後も、『朝鮮人強制連行の記録』は多くの人に読まれていくことになると考えられる。

■「強制連行」の契機の強調とその背景

 ところで、鄭大均氏の『在日・強制連行の神話』のテーマは「在日コリアンのほとんどは戦前日本が行った強制連行の被害者及びその末裔だ、という『神話』」が、「どのようにして拡がり、どう今の日本社会に影響しているか」である(引用部分は新書のカバー裏に記された言葉)。
 筆者は、そもそもそうした「神話」が浸透しているのかどうか自体に疑問を持つ。ただし、在日朝鮮人の形成史に触れる際、あたかもほとんどの朝鮮人が強制連行で渡航したかのように語られる場合があることは認める。それゆえ、なぜ「強制連行」の契機の強調の傾向が生まれ、受け入れられたか、といったことの分析は意味のないことではないとも考える。
 だが、この点について鄭大均氏はそれほど深い分析を提示しているわけではない。要するに、北朝鮮・朝鮮総連の政治的思惑のもと、「遠隔操作」された朴慶植によって著された『朝鮮人強制連行の記録』が根拠となり、80年代にメディアを通じて広まった、ということが述べられているだけである。
 そもそも、前述のように朴慶植の『朝鮮人強制連行の記録』が北朝鮮や朝鮮総連の組織的方針に沿って書かれたものと見る点は無理な読込みなのであるが、同時に80年代のメディアの影響で片付けることも問題があると考える。
 まず、「強制連行」の契機が強調された背景としては、「強制連行」とそれ以外の形態の渡日がしばしば区別がつかないケースがあったこととの関係も視野に入れる必要がある。つまり、労務動員政策の対象となって日本にやってきた人々以外にも、「強制連行」や「強制労働」と同様の体験をした朝鮮人が少なくなかったのである。
 例えば、労務動員政策に関係した渡日ではないが、企業の募集人の詐欺的な言葉を間に受けて日本に来た者、朝鮮に残っていればさらにほかの条件の悪い動員の対象となるのでそれを避けるために自ら渡日を選択した者、生活向上の希望を抱いてやってきたが「タコ部屋」に入れられた者等々は珍しくない。そうした体験を持つ親たちの話を聞いた子どもらが、"自分の親も強制連行で日本にやってきた"と語るようになるケースがあったことは十分想定できる。
 「強制連行」の契機の強調の背景について考える際にはこのこととともに、在日朝鮮人の置かれた状況を踏まえなければならないと考える。つまりは、ここでも個人の生活に即した分析が必要なのである。
 ところで、筆者の見るところでは、「強制連行」の強調の契機はすでに1970年代初めには始まっていた。例えば、佐藤勝巳編『在日朝鮮人の諸問題』同成社、1971年、240頁、には次のような記述がある。

在日朝鮮人・中国人の多くは、日本帝国主義の手によって、第二次世界大戦前及び中に、強制的に、あるいは、なかば半強制的に日本に連行されてきた人か、生きる糧を求めて渡航してきた人たちで、敗戦を迎え、日本各地に放置されたのである。

 この説明は「生きる糧を求めて渡航してきた人」にも言及があるが、強制的に連行されたケースが相当に多いという印象を与えるものであろう。
 そして、80年代にマスメディアが「強制連行」を強調し始めたとすれば、すでに1970年代には、在日朝鮮人自身や在日朝鮮人問題に取組む日本人において「強制連行」の契機を強調する人々が増えていたと見ていいだろう。
 ここで1970年代がどのような時代であったかを考えて見よう。経済的に見れば、1970年代初めは高度成長が持続しており、また、オイルショックの影響を受けたとはいっても70年代半ば以降も基本的には経済成長は続いていた。つまりは日本社会全体で見れば物質的にはより豊かになり、また豊かさを享受する人たちが増えていった時期であったと見ることができる。
 では、そのなかにおいて在日朝鮮人はどうであっただろうか? もちろん、在日朝鮮人の平均的な(といっても、日本人以上に貧富の差が激しいと見られるので平均をとることは困難なのだが)世帯においても、物質的な生活は改善に向かっていたと言うことはできよう。だが、その生活改善のカーブは日本人に比べて緩やかであったと考えられる(※15)。また、日本人は高度経済成長の過程で就職機会の拡大や賃金の上昇によって下層から脱出するケースがあったのに対して、朝鮮人はそもそも一般的な企業に就職する機会を持ち得ない状況が続いていた。つまりは、在日朝鮮人にとって日本人との格差がむしろ見えやすくなっていた状況があったことが推測される。
 しかも、当時の日本社会には植民地支配に対する反省はほとんど存在せず、在日朝鮮人に対しては「いやなら国に帰ればよい」といった声が浴びせ掛けられるケースもあった。付言すれば当時の法令では戦前から継続して日本に居住している朝鮮人であっても場合によっては国外退去の処分を行うことができるようになっていた。
 このような状況に置かれた朝鮮人たちが抱いた思いは、おそらくは"好き好んで日本に住んでいるわけではない"というものであり、"自分たちは植民地支配の犠牲者として日本に住むようになったのだ"という主張への共感だったと考えられる。
 ちなみに先に見た『在日朝鮮人の諸問題』からの引用は、在日朝鮮人の言葉ではなく、日本人である佐藤勝巳の文章であるが、これは、日本政府の法務官僚による出入国管理法令の説明が「在日朝鮮人や台湾人は、第二次世界大戦終了前に日本人として渡来し、日本の各地に定着し生活の基礎を築き上げ」云々という程度になっていたことを批判する文脈に置かれたものである。
 つまりは、「強制連行」の契機の強調は、在日朝鮮人のおかれた差別状況や日本社会の植民地支配の問題への無視、無自覚さを背景として生まれていたのである。
 さらに付け加えれば、在日朝鮮人史についての研究や歴史教育のあり方も、「強制連行」の契機の強調の要因となっていたと見ることができる。在日朝鮮人史は今日それなりの研究蓄積を持っているが、1980年代までは研究は少なく、また(現在でもそうだが)、学校教育を通じてそれについて学ぶ機会はほとんどなかった。そうした中で、日本人にせよ、朝鮮人にせよ、大部分の人々は、ほかの渡日の背景を含めた体系的な在日朝鮮人史を認識することができず、インパクトの強い「強制連行」の契機のみを記憶する傾向が生まれたのである。

■おわりに

 本稿のまとめを示せば次のようになる。まず、戦後も継続して日本に住みつづけた朝鮮人のうち、戦時下の動員政策によって渡日を余儀なくされた人々とその子孫は相対的に少数であることは確かである。しかし、戦時下の動員政策によって、本人の意思に反して日本に連れてこられ、甚だしい人権侵害を受けた朝鮮人がいたことは間違いのないことである。その事実は、別に隠されていたことではなく、戦後のある時期までは日本政府内部でまとめられた著書にも記されていた。
 だが、その事実について深く掘下げられることはなく、また、ある時期からは日本政府はその点について触れない態度を取り、植民地支配の責任をあいまいかしようとしてきた。
 このような状況を打ち破り1960年代には「朝鮮人強制連行」の研究が開始される。これは、北朝鮮国家や朝鮮総連による「革命の輸出」といった政治的方針に基づいてなされたものではない。日本帝国主義による抑圧の歴史を"終わったこと"ではなく現在にもつながる問題として把握し、また、自分自身の問題であると同時に同様の立場にあるほかの朝鮮人の問題として考えることのできた研究者によって、日本人と朝鮮人の友好的な関係の確立に寄与するために行われたのである。
 そして、在日朝鮮人の形成史に関して「強制連行」の契機が強調されてきたこともまた、理由のないことではなかった。労務動員政策と関係のない渡日のケースにおいてもしばしば日本人による暴力の要素が存在していたことや、民族差別や植民地支配の反省の不在という日本の状況に変化が見られなかったことがそうした傾向を生み出してきたのである。
 ただし、以上はいわば骨格を示したものであり、不十分な点を残している。日本社会においてどのような在日朝鮮人史の認識があり、変化してきたかは、一般的な歴史研究のみならず、それ以外の文献や映像資料等も含めたより豊富な史料から分析する必要がある。
 同時に、今後の課題として重要なこととして、日本政府がなぜ、戦時下の朝鮮人に対する労務動員の「強制」性や労務管理の「不当」性にある時期から触れなくなったかという問題がある。変化は1950年代後半に起っているので、この点は日韓会談での論議との関係も推測される。この点は、筆者のみならず、これに関連した研究者も関心を持ち、究明していくべきであることを述べておきたい。
 最後に、在日朝鮮人がしばしば「強制連行」を持ち出し「被害者アイデンティティ」で固まっている状況があるという、鄭大均氏の指摘について、触れておきたい。仮にそのような状況があるとすれば、確かにあまり幸福な状況ではないと筆者は考える。
 ただし、そのような状況が現在、それほど一般的に見られるかどうかは、実は疑問である。
 鄭大均氏は、ほとんど1980年代以降の歴史研究には言及しないわけであるが、実際にはこの間、在日朝鮮人の生活史、運動史等、「強制連行」以外の分野も広く明らかにされて来ている。また、在日朝鮮人を扱った歴史研究以外の著書や映画等においても、近年では、「被害者性」のみを強調するのではなく、むしろ自ら道を切り開いてきた側面を前面に打ち出した作品が多い。つまりは、「在日朝鮮人は強制連行を強調し被害者性をアイデンティティの核にしている」という鄭大均氏のいう「在日・強制連行の神話」自体が「神話」である可能性が高い。
 しかし、「被害者性」をアイデンティティの核にし、「強制連行」を過度に強調する在日朝鮮人がいるとして、そうした認識や意識を変えるためには、おそらく、鄭大均氏の行っているような作業、つまりはマスコミ等での在日朝鮮人文化人の言動をあげつらい、被害者性を強調するなと声高に叫ぶことは、あまり効果がないだろう。
 本稿で明らかにしたように、「強制連行」が強調されるのは、日本社会において、いまだに植民地支配に対する反省が確立されていないことやそもそも在日朝鮮人の歴史について研究の蓄積や研究成果の歴史教育への反映が十分でないことと関係している。しかも、今日の状況を見れば、「強制連行はなかった」とか、「強制連行」という用語自体が問題であるかのような言説が無責任に流布され、無視できないような影響をもってきているのである。
 むしろ、「被害者性」がアイデンティティの核になっているような在日朝鮮人の状況を変えていくとすれば、必要なのは、まずは、戦時下の労務動員での様々な人権侵害をはじめとする植民地支配の問題の存在を認め、それが在日朝鮮人の形成史に深く関わっていたという認識を日本社会の構成員たちが共有することにほかならない。そして同時に、生活史や文化史を含めた在日朝鮮人の歩みについての研究を深め歴史教育の場に反映させていくことが重要となるのである。さらに言えば、これまで述べてきたような戦後の日本社会の思想状況と在日朝鮮人史研究の展開過程の歴史を知ることも少なくない意義を持っていると考えられる。


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