村山知義と朝鮮
※以下の論稿は2005年10月にソウル市で行われた韓国民族運動史研究会での報告原稿である。

■ はじめに
生い立ちと被差別・被圧迫民衆への共感
在日朝鮮人演劇運動との接点
カップの在日朝鮮人組織化への異見
弾圧後の朝鮮人演劇運動に対する方針提起
朝鮮文化・朝鮮民衆と接触の拡大
弾圧と同化政策強化のなかの春香伝公演
解放直前の朝鮮での活動
おわりに

はじめに

 本報告では、1920年代後半から主として戯曲・演出において、そのほかに美術・小説・映画等の分野で活躍した村山知義(1901〜1970年)と朝鮮との関わりについて光をあてることとしたい。
 周知のように、国家同士の関係が支配・被支配という状態にあったにせよ、解放前の朝鮮人の民族運動に、少なくとも一定の理解を示したり、関わりを持ったりした日本人は―日本人全体のなかでは圧倒的に少数であったにせよ−何人も存在する。そのなかで、村山知義を取り上げる理由は次のようなところにある。
 まず、以下で触れるように、村山は朝鮮人との直接的な接点を多くもっていた人物であった。村山が関わったプロレタリア演劇運動という分野では日本人・朝鮮人との共同・協力が比較的多く見られたこととそれは関係している。そして、演劇という芸術は民衆に働きかけ、民衆の認識をしばしば揺り動かす(少なくともそのような可能性を持った)ものであり、重要性を持つと考えられる。
 同時に、村山は、朝鮮の文化について関心を示し、それを尊重しようとしていたこと、また、生涯のある時点にのみ朝鮮と向き合ったのではなく、少なくともある程度長期にわたって朝鮮と関わりを持っていたことも、特徴的である。
 村山知義と朝鮮との関わりについては、若干の論稿があるが、筆者がこれまで目にした日本語によるものは、いずれも短いものである(※1)
 まず、高崎隆治)による「8月15日の演劇人―村山知義小説集『明姫』―」(『文学のなかの朝鮮人像』青弓社、1982年、ただし初出は『季刊三千里』第26号、1981年5月)は、1947年に刊行された小説集『明姫』を取り上げている。この論稿は、1944年に朝鮮にわたり朝鮮総督府の息がかかった演劇団体に関与していた、つまりは戦争遂行と植民地支配に協力していたにもかかわらず村山においてはその反省が見られず、むしろそのような行動を正当化していると批判したものである。これに対して林浩治(はやし・こうじ)「村山知義と朝鮮」(『戦後非日文学論』新幹社、1997年、初出は『愚行』1994年10月号および『新日本文学』1995年6月号)の評価は異なる。村山が転向後、朝鮮人と結びつきを強め、戦後も含めて朝鮮の民族文化に関心を示していたことなどを紹介しながら、村山の朝鮮とのかかわりを肯定的に評価している。また、鄭大成「青年村山知義と〈朝鮮〉−出会い、交流、そして連帯のほうへ」(『彷書月刊』2001年6月)は、村山と在日朝鮮人労働者との出会いや金史良、林和との交流を紹介し、朝鮮との関わりが表面的なものではなかったこと、村山も朝鮮から影響を受けているなど、今日においても真の交流、連帯のヒントを与えるものであると評価している。さらに、舘野皙(たての・あきら)による「いつも陽の当たる場所にいた"理解者"」(『韓国・朝鮮と向き合った36人の日本人』明石書店、2002年、に収録)は、村山が演出した演劇「春香伝」の公演と内鮮一体の政策との関係の示唆、小説「明姫」における「朝鮮に対する視座のゆらぎ、あいまいさ」の問題を指摘しているが、掘り下げた考察は提示していない。
 このほか、直接、村山に焦点をあてたものではないが、白川豊による張赫宙研究のなかでは、「春香伝」の公演の分析があり(「春香伝」の脚本を張赫宙が執筆したため)村山についても若干の言及がなされている。具体的には村山が朝鮮人たちから「春香伝」の原作の解釈や批判を受けたが気に留めなかったことなどである(『植民地期朝鮮の作家と日本』大学教育出版、1995年)。なお、「春香伝」の公演の「成功」について、白川は「内鮮一体」という「時局」との関係があったことを指摘している。
  したがって、これまでの研究は「必ずしも村山と朝鮮の関わりについて全体的に取り上げたものではなく、舘野の言うように「かれと朝鮮とのかかわりの内実については、まだほとんど明らかにされていない」段階にあるとまとめられるだろう。
 筆者もまた、幅広い村山の活動をおさえ、彼の人格、思想の全体を把握し、朝鮮との関わりを分析する材料を持っているわけではない。しかし、文学研究者による先行研究を手がかりに、それを歴史学の方法で当時の社会状況に即して彼の活動を捉えることで、いくつかの新しい論点を提示できるのではないかと考える。以下では特に、解放前の時期に焦点をあててそのような作業を行うこととする。


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