強制ではないことの意味を考える
1、「朝鮮人強制連行の嘘」という嘘

 今日、「朝鮮人強制連行の事実はない」「朝鮮人強制連行は虚構である」といった宣伝が無視できない影響力を持つようになってしまった。そうしたなかで、戦後補償問題の解決や植民地支配の反省確立の活動に関わる人びとには、しばしば「強制連行はあったのか、なかったのか」との質問が寄せられることになる。この問いに答えるとするならば、「朝鮮人強制連行はあった」である。この答えの根拠となる歴史研究、関係者の証言は多数存在する。しかし、この答えのみでは満足せず、さらに「では、強制連行はどの程度あったのか」とさらに聞く人びともいる。こうした疑問が発せられるのは、自ら望んで日本に働きに来た朝鮮人に関わる史料や証言が存在することが関わっているだろう。この点については「少なくとも国民徴用令の発動以前である1944年の春段階には広範囲に広がっていたし、日米開戦直後には余剰労働力が枯渇していたので相当数、暴力的な動員が増えていたことが推測される」というのが、歴史研究に基づく回答となる。
 拙著『朝鮮人強制連行』(岩波新書、2012年)にも記したが、1944年春段階で本人の意思に反した動員が行われていることは、朝鮮総督府政務総監の道知事会議での挨拶でも触れられているし(『朝鮮総督府官報』にも掲載されている)、朝鮮の実情調査を行った内務省嘱託も、労務動員が「拉致同様」となっていることを報告していた。そもそも、1940年時点で朝鮮総督府が推計していた朝鮮農村における男子の転業希望者の数字である約24万人に対して、1941年度の労務動員計画の朝鮮農村の給源は約 21 万人であり(このほかに満洲移民の送出もあり、それより規模は小さいが軍要員、志願兵となる朝鮮人もいる)、単純にこの年度のみの労務動員を考えたとしても、その実行が相当に困難であるほどに労務需給は逼迫していた。もし仮に転業希望者のみから動員を進めてそれが成功していたとしても(実際には朝鮮内の労務動員行政機構の未整備、情報伝達の不徹底や不可能性から考えてそれはありあえない話である)、年度末時点には朝鮮にはほとんど転業希望者は残されていなかった計算になる。にもかかわらず、1942年度の動員計画はさらに規模が拡大しており、そうしたなかで充足率は逆に上昇し、100%を超えていた。少なくとも 1942年度中には、“無理やり連れて行った例もある”、のではなく、“無理やり連れて行かなければ計画遂行は不可能”となっていたことが、統計数字上も確認できるのである。なお、朝鮮総督府官房嘱託等を歴任した鎌田沢一郎は、1950年に出版された『朝鮮新話』のなかで、小磯国昭朝鮮総督が、「南〔次郎〕統治の末期から、自己の施政下にかけて、労務動員の強制が行われてゐる」ことを知り「改善に誠意を示す」ことを行ったとしている。小磯総督のもとでの動員される朝鮮人の扱いがマシになったかどうかはともかく(直接の暴力の発動が益々目立つようになっていたことをうかがわせる史料はいくつもある)、南次郎朝鮮総督の任期中から、労務動員のあり方が問題化していたことがわかる。南から小磯への総督の交代は 1942年5月であることを考えれば、やはり1941年度中に強制的な人集めの事例が目立っていたと見て妥当だろう。
 さらに言えば、それ以前でも暴力的な動員の事例はあった。当時の朝鮮の行政機構は十分整備されておらず、そうしたなかで、短期間に指定された行政区域で必要な労働者を確保するには、本人の意思があろうがなかろうが連れてくるほかなかったためである。

2、「非強制」の事例の実在

 以上を確認した上で、しかしやはり、動員計画に基づく要員確保において、企業の募集人=労務補導員や面事務所の職員などの誘いに応じて、日本内地の炭鉱等で働くことを選択した朝鮮人がいたこと自体は否定できない。しかしそうした人びとであっても、やはり日本帝国の動員の被害者である、という意見もある。そのことを論証するためにこれでまでなされてきたのは、彼らの配置先での労働の過酷さ、劣悪な待遇、契約期間満了の後も働かされ続けて来た事実を列挙することであった。つまり、たとえ連行段階で強制ではなくても、配置された後は強制労働だった、というのである。こうしたケースが多かったことも証言等から裏付けることができる。だが、動員計画によって日本内地の事業所に配置された朝鮮人のすべてが戦争終結まで奴隷のような待遇のもとで働き続けたかどうか、と問われればそうとは言い難い。まず、契約期間満了で帰郷した朝鮮人はゼロではない。1943年6月末時点の内務省調査によれば、この時点において期間満了で職場を離れた者は、募集によって配置された14万6473人のうちの2万2848人、官斡旋によって配置された15 万4181人中1101人となっている。この後、労務需給がますます逼迫していったので、無理やりの期間延長が一般化していったことは想像に難くないが(帰郷要求の紛争議が増加していることもそれを裏付ける)、期間満了による帰郷者は少なくともこの時点ではそれなりにいたのである。また、待遇についても、確かに厳しい監視付きの宿舎に入れられて外出の自由はなく、支給されるのはボロボロの衣服であり、食うや食わずのまま長時間の重労働を強いられ、賃金は渡されなかった、という証言は多い。しかし動員された朝鮮人の証言における労務管理の実態は必ずしも、そこまで酷いものばかりではない。休日の外出や、地域や職場の日本人との接触、交流があったことを語る人びともいる。また、企業の文書からは、演芸会や映画会といった娯楽の提供を行っていたケースも確認できるし、あるいは戦時期の朝鮮人労働者のことを記憶する日本人のなかには、彼らは自分たちより食料の配給で多かったことを語る人もいる。動員計画に基づく「移入朝鮮人」についてではないが、戦時下に軍関係の工事現場にいた朝鮮人が、比較的、好条件で働き生活を維持していた事例を伝える朝鮮人もいる。1925年生まれで 1943〜1945年に秋田県の軍需道路建設工事に従事した朝鮮人によれば、その現場の状況は、「配給は全部白米、雑穀はなかった」「賃金はむしろ高かった」「岩石など困難な問題にぶつかったときは、県側に割り増しを要求したが、作業の進捗を重視していた当局はこれに柔軟に応じた」「賃金は月2回、毎月1日と15日にわけて3年間間違いなく支払った」というものであった(戸塚秀夫「戦時労務動員下の『別天地』―在日朝鮮人朴麟植氏の証言を辿って」『大原社会問題研究所雑誌』第638号、2011年12月)。

3、「優遇」されないことの異常性

 では、このような強制連行・強制労働というイメージに合致しない事実や証言、記憶については、どのように考えればよいのだろうか。
 まず、契約期間満了で帰郷した朝鮮人がいたことは不思議ではない。当たり前であるが無理やり契約を延長させられた事例が多発していることがおかしいのである。しかも日本内地側の行政当局、あるいは地域社会のマジョリティである日本人住民の大半の人びとは、異質な文化を持ち、潜在的に危険な存在と見なしていた朝鮮人が日本内地に定着することを望んでいなかった。つまり日本内地側から見たとき、動員された朝鮮人は、あくまで“契約した期間のみ滞在を許した存在”に過ぎないのであり、もともとは“期間が過ぎれば追い返すべき存在”であったのである。そうでありながら実態として契約期間延長の強制が常態化していったのは、労働力の枯渇の進行と契約期間中に作業に習熟した労働者を手放したくないという企業の思惑が関係している。
 また、労務管理については、そもそも、奴隷労働を生み出したような強圧的なあり方は、企業にとって手段の一つにしか過ぎないということをおさえておかなければならない。企業が追求していたのは、朝鮮人労働者(正確に言えば、朝鮮人に限らず労働者全体)をして、職場を移動せず、従順に、能率を上げて働かせることである。その実現のために、何がもっとも適切な手段であるかは状況によって異なる。したがって、そこではハードな管理もソフトな管理も、それを組み合わせた管理もありうる。周知のように、朝鮮人が多く配置された炭鉱では、もともと反抗的な者、逃亡して発覚した者などにリンチを加えるといった過酷な労務管理が行われていた事実がある。土建業でもタコ部屋や監獄部屋という呼び名で知られる形態でそうした労務管理の実態があったこともよく知られている。そして、戦時下にそうした形態の労務管理がなくなったことを示す史料はなく、むしろ北海道の炭鉱についての調査では「広範に充用せられ、時代の脚光を浴びて増産の最前線に立たしめられている」(柳瀬徹也『我国中小炭礦業の従属形態』伊藤書店、1944年)状況が伝えられていた。したがって、戦時下の朝鮮人に対する労務管理は、一般的には、極めて強圧的なものであったと考えるのが妥当だろう。
 しかし、もしソフトな管理が必要で有効であり、それを行うに可能な条件があれば、企業はそれを選択する。労働者の移動防止(極端な労働力不足に陥っていたなかで、労働者の引き抜き、極端にはほかの事業所の労務係の手引きで動員された朝鮮人を逃亡させるといったことまで発生していた)という戦時下の各企業にとっての重要問題への対策の一つは、歩哨を立てて監視を強化する、逃亡に失敗した者に対する見せしめのリンチを行う、といったハードな管理であるが、もし食糧、酒などの配給を増やせるとすればそうすることで、労働者のつなぎとめを図るという方策を企業が選択しても不思議はない。そして、食糧、酒などの配給を増やすことは、土建飯場で「幽霊人口」を作って、つまり実在しない労働者がいることにして配給を増やす、関係当局に便宜を図ってもらう、などによって不可能ではなかった。
 もっとも、戦時期において、そうした配給面での「優遇」を実現するのは企業のみの判断では無理である。その実現には、行政当局や軍の意向が重要となるのであり、しばしばあり得たこととしては、戦争遂行、あるいは本土決戦、防衛のためにとりわけ重要性の高い工事現場や事業についての配慮である。つまり、そこで働く労働者が十分、労働力再生産を行い、労働意欲を高めるための措置がなされたのである。こうした措置と朝鮮人労働者は決して無縁ではなかった。朝鮮人労働者が配置されたのは、しばしば重要性の高い工事現場や事業所であったからである。前述の秋田県の軍需道路工事に従事した朝鮮人が経験した好条件の労働現場(動員計画によって配置された労働者ではないが)についても、「もっぱら作業の進捗を重視していた軍や県は、労働者の待遇について配慮する態度」を取っていたとの証言がある。付け加えれば、そもそも、朝鮮人に限らず、炭鉱、土建、港湾荷役等の重労働に従事する肉体労働者に対しては、食糧の加配が行われていた。戦争末期、コメの配給は1日当たり1人2合3勺を標準としていたが、重労働に従事する者には3〜4合を増やすことが決められていたのである。現実には当時の肉体労働者の場合、8、9合は必要と言われていたのであり、この程度の加配は不十分であるが、しかし、日本人住民が土建飯場などにいた朝鮮人労働者について配給が多かったことを記憶するということはありうる。
 要するに、当時の労働市場の状況=極端な労働力不足から企業側が迫られていた対応、国家の政策を考えれば、朝鮮人労働者に対する食糧配給等の「優遇」があったケースは、企業や国家の利益のためになされた措置による、いわば当然の状態なのである。だが実態はそうではなしに、劣悪な条件での奴隷労働が横行した。しかも、十分な食糧をいき渡せる程度の配給を受け取るためには、当局との特別な関係を築く、あるいは「幽霊人口」を作る、といったイレギュラーな方法が必要であった。これらのこと自体が、「異常」と見るべきなのである。

4、募集・官斡旋における統制と差別

 では、自ら望んで日本内地に働きに来たという朝鮮人、つまり国民徴用令の発動以前の、いわゆる募集や官斡旋で、物理的な暴力や心理的な圧迫などとは無縁で日本内地での就労を選択した(と少なくとも本人が考えている)人びとについては、どう考えるべきであろうか。まず、これまでも指摘されてきたが、そうした人びとも植民地支配政策の影響とは無縁ではなかったということをおさえておく必要があろう。つまり、朝鮮農村での生活が困難になり、日本内地の労働市場に生活の道を求めざるを得ない条件が作り出されたのである。
 しかし、同じ時期に日本内地の農村に住む内地人=日本人のなかにも生活に困り、農業以外の別の仕事に就くため移動した者は相当数存在した。では、彼らと戦時動員された(動員に応じた)朝鮮人は同じ条件のもとに移動したのであろうか。そうではない。内地人=日本人の場合であれば、同じ日本列島のなかであれ、日本帝国の植民地のどこかであれ移動は自由であり、労働力を求めている企業と合意すれば基本的に転職が妨げられることはない。基本的に、という留保は、戦時体制の構築の中で軍需工場等への就労を誘導するためのさまざまな法的統制があったためであるが(例えば、ある種の職種は女性を就労させる=男性は就くことができないなど)、しかし職業選択の幅が大きく狭まったというほどのものではない。しかも、軍需工場での就労の場合、そこで得られる収入は下層の小作農民にとって魅力的な水準にあったし、そこでの労務管理や労働は少なくとも炭鉱に比べれば過酷ではなかった。これに対し、朝鮮人の場合、戦時体制の構築以前から、日本内地への移動は事実上、行政の許可が必要であった。地元警察の発行する渡航証明書を得なければならず、それを持たずに日本内地行きの連絡船に乗り場に乗ろうとした場合には当局の「諭旨」によって移動を阻まれたためである。そして労務動員政策が始まると、動員計画と関係のない日本内地への就労のための渡航証明書の発行に対して抑制の指示がでている。つまり、日本内地への移動はそれ以前に比べてもより制限され、動員計画に基づく就労以外の、自分が見つけてきた職場への移動は困難になったのである。そして、動員計画における朝鮮から日本内地への「移入労働者」は、主として炭鉱・土建・港湾荷役の事業所であり、労働条件が劣悪なことが知られていた。要するに、“戦時期に動員計画に自由な意思で応じた朝鮮人”というのは、大きな構図で見れば事実上の移動の統制と就労可能な業種に対する制限のなかでの選択を強いられていたのである。また、自ら進んでやってきた朝鮮人であっても動員計画のもとでの要員確保、事業所への配置であるならば、それは国家が必要とした労働力である。そうであるならば、本来は国家が責任をもって、労働環境等を良好な水準に維持し、本人やその家族の生活に困難を来たさないような施策があってしかるべきである。国家総動員法の規定によって徴用とされた者の場合は、実際にそのために、日本政府は徴用された労働者の配置先の事業所の労働者処遇、労務管理の監督やそれに関連する命令を下すことを可能としていたし、徴用先の労働に関連した傷病に対する給付金、生活に困窮した家族への給付金や別居手当の支給、前職の収入からの減少分の補填等の各種の援護施策を準備していた。しかし、募集や官斡旋で日本内地に配置された朝鮮人は、国家による労働者待遇の水準の維持や各種援護施策とは無関係となっていた。募集や官斡旋で日本内地にやってきた人びとは、被徴用者と比べてその扱いにおいて差別を受けていたのである(ただし1944年9月以降、官斡旋によって配置された朝鮮人労働者も援護施策の対象となった。また、徴用令書を受け取って動員させられた者以外の朝鮮人であっても戦争末期までには軍需会社や軍需充足会社の指定を受けて徴用されたと見なされた者が多数いたはずである。しかし朝鮮の行政機構が関連業務を処理できず、実態としてそれらの人びとやその家族が援護施策を受けられたケースは稀であった)。

5、法的強制によらなかった理由

 以上のように募集や官斡旋による被動員者は、徴用された者に比べてむしろ処遇において不利であった。しかし募集や官斡旋で日本内地に来た者の就労・雇用は、法的強制ではなく、あくまで個人と企業との合意、契約に基づく行為となる。それを命じる法的な根拠はない。付言すれば労務動員計画・国民動員計画の策定は国家総動員法とも関係がないし(国家総動員法にそれを策定しなければならないという条文はない)、それに基づく企業の求人を100%充足させるべきだとする法令も存在しない。これに対して、徴用は国家総動員法に規定され、国民徴用令等で細かな手続きが定められており、日本政府がある個人に対して、事業所と従事すべき総動員業務の内容を指定して命令を下すものであり、それに従わない場合には罰則が下されることになっていた。この点から、戦争末期を例外として募集や官斡旋による要員確保で進められた朝鮮人労務動員よりも、徴用が早い段階から行われた日本人に対する労務動員がより過酷であったように見える。
 しかし、徴用によらない労務動員は、朝鮮人に対するより寛大な措置を意味するわけではない。朝鮮では労務動員を担当する行政機構が未整備であり、複雑な事務手続きが必要な徴用の実施は困難であった。しかも朝鮮人が動員された炭鉱や土建、港湾荷役等への徴用実施は適当ではない、つまりこれらの劣悪な労働条件で知られる職場は国家の命による労働者の配置である徴用にふさわしいとは考えられていなかった(土建労働にいたっては国家総動員法の総動員業務の列挙の中に含まれておらず徴用を命ずることが不可能であった。もっとも後に勅令を出して一部の土建工事は例外的に総動員業務となったが)。言い換えればより不利な労働条件の職場に動員するために、朝鮮人労務動員は徴用以外の方法を主に用いていたのである。
 これとともに、朝鮮人労務動員が主に徴用ではない方法が取られたのは、国家が動員対象をどのように考えているのかということに関連する問題があるように思われる。この点からも法的強制ではないことの意味を、根本的に考え直すべきである。もともと、近代国家がある個人に対して法律に基づく強制を行うのは、その個人が権利を持つ主体であるとするがゆえのことである。つまり、本来、法律に根拠を持つ行政命令がない限りにおいては、どこに住むか、どのような職業を行うか、自分が持つ財産をどう処分するか等々は、個人の自由であると考えられている。これとは異なり、権利を持つ主体ではない存在であれば、それへの対応は、わざわざ法律やそれに規定された手続きを持ち出して進めることはない。ある個人に対してその権利を制限する場合には、根拠となる法令、それに基づく手続きが必要となる。例えば、ある個人を逮捕するには(現行犯でなければ)、令状がなくてはならないしそれの法的根拠には刑事訴訟法が存在する。これはその個人が法律以外には権利を制限されることのない主体であるためである。しかし、野良犬を連れてきて首に縄をつけてつなぐことはとがめられない。野良犬は権利を持つ主体ではないからである。
 近代国家がある個人に指定された事業所で特定の業務を行わせようとする場合も、その個人が権利を持つ主体である限り、通常はやはり法律を根拠に手続きをとって行政命令を下すほかない。そのような動員である徴用は、その対象となる個人が権利を持つ主体であることを前提とし、国家がそのように認識しているがゆえに行われる。
 これに対して、朝鮮人の労務動員は、事実上、国家による強制であるにもかかわらず、その強制には法的根拠は存在しなかった。このことは、国家が動員の対象である朝鮮人について権利を持つ主体と認めていなかったことを意味するのではないだろうか。
 もちろん、日本帝国政府の公式見解は、大日本帝国臣民たる朝鮮人は内地人=日本人との差別はなく、したがって法律によらない限り権利を制限されない、というものであった。しかし、実はそれ以前から、朝鮮人に対する法律によらない事実上の権利の制限は日本帝国の行政機構によって行われていた。前述のように朝鮮人が日本内地に渡ろうとする場合、当局から渡航証明書を入手しそれを提示しなければ警察によって連絡船の乗船が止められる、ということになっていたのである。そして渡航証明書についての法令による規定はなく、したがってある種の基準を満たしている朝鮮人が申請すれば必ず給付を受けられるというものではなかった。要するに、植民地を支配する行政当局による、法律によらない恣意的な朝鮮人の移動の制限が可能となっていた。大日本帝国憲法に規定されていた帝国臣民の移動の自由は実態として朝鮮人においては剥奪されていたと言える。にもかかわらず、それは日本帝国のなかで当たり前のことと見なされていた。朝鮮人のなかからの批判はあるにはあったが、内地人=日本人の間で、それを問題視する主張があったことは確認できない。
 このようなことから、日本国家・内地人=日本人は、朝鮮人を同じ帝国臣民としながらも、しかし内地人=日本人同様の権利を持つ主体とは見なしていなかったと言える。そして、行政当局は法的根拠なし朝鮮人の権利を左右することができたし、その実績が存在した(植民地の日常において、日本内地への移動の自由の制限だけでなくさまざまな場面で、そうした法的根拠なしの圧迫はあっただろう)。そのことが法的強制によらない朝鮮人労務動員を生み出したのである。

6、強制ではないことが示す問題

 日本の加害の歴史を問題にするために朝鮮人労務動員について論じる時、これまで注目されてきたのは、強制連行・強制労働という要素であり、目に見える直接的な暴力であり、それについての国家の関与であった。そのことを明らかにし、伝えることはもちろん、今日も大きな意義を持っている。
 しかし、そのことのみをもって朝鮮人労務動員の問題性を語ることは、危険性をはらんでいるのではないだろうか。そのことによって、この問題について歴史的事実や大きな状況の背景を教えられて来なかった人びとは“強制性の有無が問題の本質”と思ってしまう可能性はないだろうか。また、強制連行・強制労働を語る人びとの間には、国家がどれだけ関与したかや物理的暴力の強度を被害の度合いの基準とする見方が、これまであったのではないだろうか。少なくともそのような印象を与える語り方をしてこなかっただろうか点検する必要があるのではないか。募集、官斡旋、国民徴用令の発動、という動員形態について、「募集であっても実態として行政当局が関与したのだから問題」という言い方がなされる時、それは「国家が直接関与し命令を出した国民徴用令がもっとも酷い動員形態である」という認識が根底にあったのではないか。そして、自ら望んで募集に応じた朝鮮人は、「例外」として片付けられ、その被害について語られ難い状況を生み出してきたのではないだろうか。
 もちろん、日本社会で植民地支配の歴史への反省を確立するためには“どのような状況、方法によるものであろうと朝鮮人労務動員は強制である”と主張するべきだとの意見もあるだろう。確かに植民地支配、日本帝国の侵略戦争を支える労働を心から望んでいた朝鮮人はほとんどいなかっただろうし、いたとしても日本のイデオロギー教化の結果であるわけだから、そのように言うことも可能である。
 しかし、そのような主張を続けることは、朝鮮人労務動員の何がどう問題であるのかを見え難くしてしまうだろう。むしろ、国の直接的な関与がない場合もあること、むき出しの暴力が使われているケースばかりではないことなど、「強制でないこと」の存在を事実として認め、それに着目し、その意味を考えることこそが、朝鮮人労務動員の問題性に対する理解を深めるはずである。
 本稿で述べてきたように、動員された朝鮮人のなかには「日本内地での就労を希望していた」という認識を持つ者もいる。しかしそれはもともと統制の枠内で選択の幅を狭められていたなかでの、「自由意思」に過ぎない。奴隷労働ではなく、当時としては相対的に好条件で働いていた朝鮮人もゼロではない。だが、当時の労働市場の状況から考えればそれは当然、あってしかるべきことであるし、むしろそうでなかったことがおかしいのである。しかもそうした相対的な好条件は戦争遂行のためにとりわけ重要な事業であることと関係していたのであり、朝鮮人という存在が尊重されていたためではない。
 そして、戦争末期を除いて、朝鮮人労務動員は法的強制の裏づけなしに進められてきた(法律に基づく行政命令として事業所、就労すべき業務を命令しているわけではない)ということも、無視ないし軽視するのではなく、重要な事実として見据え、その意味を理解しなければならない。それは、一定の水準の待遇や援護施策といった国家としての責任を放棄しつつ、より不利な条件の職場に朝鮮人を動員することと表裏の関係を持つ。しかもそれは、朝鮮人を内地人=日本人同様の権利ある主体とは認識していなかったことの表れとも言えるものであり、法律によらずとも朝鮮人の自由を奪うことができるという植民地朝鮮の現実と実際にそうしてきた実績ゆえに行われたと見ることができる。つまりは、朝鮮人労務動員における「強制ではないこと」の要素は、それこそが、日本人の朝鮮人に対する差別、抑圧、支配を示しているのである。


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