戦時動員とは何か、なぜ問題か
―「国家による強制」の形式的不在が意味するもの―
1、問題意識と課題―「強制性さがし」の限界―

 ここのところ、慰安婦問題や朝鮮人強制連行について、様々な議論が行われている。筆者も男性の朝鮮人労働者の日本内地への連行の研究を少々行い、書籍もまとめたこともあるためか、解説を求められることがある。まだまだ研究が不足しており、今後明らかにすべき点が残されている―しかしその割には研究する人が少ない―問題に関心が集まることは歓迎すべきことである。
 しかし、慰安婦や朝鮮人強制連行、あるいはそれと関係する日本人を含めた戦時動員全体についての、関心のもたれ方については若干の違和感を持つことがある。それは戦時動員の強制性に関心が集中していることである。筆者がよく受ける質問、あるいはこれについての議論でしばしば見かける疑問は次のようなことがある。すなわち、朝鮮人の動員のどれが強制連行なのか、このような事例は強制連行と言っていいのか、動員における強制とはそもそも何であるのか、どう考えるべきか、直接的物理的暴力でないものも強制なのかどうか、戦時動員される際に強制性がなければ、問題がないのか、などである。実はこれはかなり前から出されていた、いわばおなじみの議論である。そして、日本帝国の加害の事実に誠実に向き合おうとする人びとのそれに対する回答は「連行段階での強制の有無は問題ではなく、その後も含めての人権侵害が問題なのだ」というものである。
 だが、そうした回答を前にしてもなお、前述のような質問は繰り返されている。と同時に、それに対して、次のような議論が展開されている。すなわち、一部に自発的に応じた事例はあるにせよ、大部分は強制連行であり、しかもこのように酷い事例がある、法的な強制性はないが実態として強制である、詐欺甘言で連れて行ったのも本人の意思を無視したもので広義の強制性と言える等々である。
 もちろん、そうした議論は意味がないわけではない。日本帝国の加害の責任を明確にすべきであると考える筆者としても、それは大いに意義があると考える。
 ただし、「連行段階の強制性の有無は問題ではない」とする人びとがこのような議論=「強制性さがし」を行うのは、やや奇妙である。そのような議論が行われる背景には、どこかで「連行段階の明確に強制的な戦時動員がもっとも国家の加害性が強く現われたものである」という意識があるのではないだろうか。
 このような推測は、真摯に日本帝国の加害の歴史に向き合おうとする人びとに対して意地悪な推測かもしれない。しかし、前記のような意識のもとでの「強制性さがし」ではなかったとしても、それは連行段階の明確な強制性こそが戦時動員の問題の本質と考える人びととの論争―筆者の見るところでは不毛な論争―を終わりのないものにしてしまう懸念が無きにしもあらず、である。もっと言うならば、この国のマスコミの状況を関するとき、それはあまり実りのないままに、この問題にそれほど関心のない多くの市民をして、“どうやら問題になっている戦時動員の争点は強制か否かであり、それについては様々な意見があって決定的な証拠はないらしい”という認識に導く可能性が高い。
 そのようななかで、では、戦時動員の問題をどう論じるべきだろうか。筆者は、ここで「強制性さがし」ではなく、むしろ、問題とされる戦時動員において「形式的には強制性がなかった(決して実態としてそれがなかったというのではない)こと」について、注目する必要があると考える。様々な戦時動員があるなかで、形式的に強制性がなかったということは、それはそれで意味があるはずだからである。
 そのためには、形式的にも強制性が明確であった戦時動員と何がどう違うのかを把握する必要がある。そこで、以下ではまず、なるべく広く、様々な戦時動員の姿を示して、戦時動員の制度や政策について全体の概観を提示したい。その上で、「強制性さがし」ではなしに、何が問題であるのかを考えていく。

2、戦時動員の分類と法的根拠

(1)戦時動員の理解の難しさ
 戦時動員とは、戦時中に行われる、動員という意味であり、普通名詞である。動員という語は、国家以外の各種団体が人や物資等を招集ないし収用して用いるという意味で使われることも多々あるが、戦時中の動員については、一般的には国家の意思を背景に戦争遂行のためにそれを行うということが含意されている。そうした戦時動員の対象となったのは、物資の動員、金融の動員、国民精神等々、様々であるが、もっとも重視されていたのは「人的資源」と呼ばれた、人間の動員であった。そのため、一般的に戦時動員と言えば、人間の動員を指すことが多い。以下、本稿では、戦時動員の語はその意味で用いる。
 さて、そのような戦時動員が総力戦を行っていた時期、言い換えれば1937年7月以降、中国との戦争が長期化し前面化していてさらに英米等とも交戦し最終的には1945年8月に終結する期間の日本においても実施されていたことは常識の類に属する。学校でもそれは教えられるし、あるいは戦中を体験した人による様々な文章もある。家族や親戚、近所の人びととの会話の中でもそれに関連した話題があるいは出ることもあるだろうし、それを聞いて記憶している若い世代の人もいるだろう。第二次世界大戦末期に10代半ば以上の年齢にあった人であれば、何らかの形で戦争遂行のための業務に参加していたわけであるから、現在でも、自分の体験として徴用や勤労奉仕、挺身隊や報国隊として活動した等の記憶を持つ人も当然いる。しかし、戦時動員とは何であったかと聞かれた場合、詳細に説明できる人は少ないのではないだろうか。国家総動員法というものがあり、徴用という制度があったこと、そのもとで国が命じる仕事に無理やり就かされた、という認識程度ではないだろうか。では徴用というのはどんな制度なのか、それは勤労奉仕や挺身隊、報国隊の活動とはどう違うのか、法的根拠は何かといったことについて聞かれたとしても、おそらく多くの人の答は“よくわからない”であろう。これは無理もないことである。なぜならば、歴史教科書でもそんなことについては事細かには記述していない。そもそも歴史教科書の記述を考える際に参照するような、日本近代史の本をとってみても、戦時動員の制度について詳しく書いているものはおそらくない。それどころか、筆者が見るところでは歴史研究者の書いた著書においても、戦時動員に関わる法制度についての誤謬や、あるいは誤解を与えるような表現がしばしば目に付く。そのことも実は無理のないこと(戦時動員という重要な史実についての研究が遅れているのは問題だが)というべきかもしれない。と言うのは、戦時動員の法制度は極めて複雑であったからである。それについての理解自体、当時、実務に当たっていた人びとの間でも相当、難しかったというのが実状であった。関連法規の分厚い解説書が、戦時中に―したがって紙の配給自体が少なくなっていた時期であるにもかかわらず―何種類も出ていたのは、そのことを裏付けているだろう。戦時動員とは意外に複雑なものであるということをまず、おさえておく必要がある。

(2)動員対象とそれが行われる地域―帝国臣民か否か、帝国内か外か―
 複雑な戦時動員の仕組みをおさえていくには、大まかな分類を示して説明したほうがよいであろう。その際、もっとも大きなレベルで分類すべきは対象が日本人であるかどうかとなるだろう。戦後の補償の問題でも厳然とした差がついているし、戦時動員を行っていた当時も日本人とそれ以外では、日本帝国の認識も扱いも異なる。ただしここで注意しておくべきは、日本帝国の中には、一般にいう日本人=内地人(日本の民法に基づく戸籍=内地戸籍に編入されている日本帝国臣民)以外に台湾戸籍・朝鮮戸籍(両者を合わせて外地戸籍と呼ぶこととする)にそれぞれ編入されていた台湾人・朝鮮人の帝国臣民がいて彼らも動員の対象となったことがある。そして、日本帝国臣民ではない人びと(当時の日本にとっての外国人)も日本の戦争遂行のために労働力提供等を強いられた事実がある。これらについて整理して分類する必要がある。
 この点はしばしば、中国人・朝鮮人強制連行とか、中国人・朝鮮人慰安婦といった言い方で、現在の日本人=当時の内地人とそれ以外という捉え方がなされがちである。確かに当時においても、日本人の民衆にとっては朝鮮人も中国人も“自分たちとは異なる人びと”という認識があった。また、朝鮮人は日本帝国臣民であるとされていたにもかかわらず、法制度面において様々な差別を受けており、大日本帝国憲法で保障されているはずの権利すら享受できていないという実情もあった。しかし、日本帝国は、内地人と朝鮮人・台湾人を差別なく扱うとし、あくまで自国民としての戦争協力を求めていた。また、日本帝国内の法令は占領地や戦闘地域では基本的には通用しない(もちろん、日本帝国内部でも、内地=現在の47都道府県と台湾・朝鮮などの外地で施行されている法令は異なる部分があるが、多くの法制度は内地・外地を問わず共通して施行されている)。そもそも、占領地は軍政が敷かれていたわけで、日本帝国の一般行政機構が存在していたわけではなく、戦闘地域は軍政機構すら存在していない。この点から、日本帝国臣民である植民地の人びとと日本帝国臣民以外の外国人との差は厳然としてあると見るべきである。その結果として、占領地・戦闘地域では、法に基づくかどうか自体が意識されることなしに、むき出しの暴力によって労働力提供が強いられたり、そのための人員が集められたりした。

(3)軍の直接雇用による動員
 以下、日本帝国内からなされた日本帝国臣民の動員に関してさらに分類をして置く。日本帝国内の動員で、最初に分けて考えるべきは、軍=日本帝国陸軍・海軍の直接雇用か否かである。軍は一般行政とは分離される、独自の指揮系統、法令にしたがって動く存在であったためである。
 直接に軍が雇用しているのは軍人ないし軍属(陸軍・海軍の直属の工場=工廠、軍が直接管理する軍事基地建設等に関わる土木建築工事等で働く人びと、その他、戦闘行為以外での軍に関わる様々な業務のために雇用された人びと)である。ただし軍人のなかに含まれる職業軍人は、自己選択の要素が強いわけであり、戦時動員の範疇には入らない。したがって、戦時動員で軍人になった者は大部分が徴兵検査を受け、徴集された兵士である。
 徴兵自体は帝国憲法にも、「法律の定むる所に従ひ臣民の義務を有す」との記載があり、個別の法律として兵役法に基づいて行われた。これはもともと内地人の男子のみを対象とするものであったが、1943年の法改正によって台湾人・朝鮮人(台湾戸籍・朝鮮戸籍に編入されている日本帝国臣民、なお、台湾・朝鮮等の植民地は当時、外地と呼ばれており、台湾籍・朝鮮籍を一括して外地籍と呼ぶことにする)の男子も対象となった。彼らに対する徴兵は1944年度と1945年度に実施された。
 このほか、徴兵以外によって兵士となった人びともいる。外地籍の志願兵がそれにあたる。陸軍、海軍、台湾人、朝鮮人でそれぞれ実施時期が違い、それぞれ根拠となる法令が出された。もっとも早いものは1938年の陸軍特別志願令(勅令)で、朝鮮人を対象とするものである。
 軍属についてはその雇用関係を全体として記した法令は確認できない。また軍属となるのは内地人に限定するという法的制限はもともとなかったと見られる。ただし、外地籍の人びとが軍属として大量に採用されていくのは、総力戦が行われている1930年代末期以降である。

(4)民間事業所および軍以外の官公庁関連の動員
 日本帝国内部・日本帝国臣民の動員で軍以外の事業所に関わるものとしては、軍需工場等の民間の事業所や軍以外の官公庁、国策上重要と見なされた土建工事現場、物資生産にかかわる作業現場における雇用ないし雇用関係はないが労働力を提供する形態の動員である。これに関する重要な法令としては、国家総動員法があり、同法は外地も含めて施行されており、内地人か否かも法の適用自体には関係が無い。
 国家総動員法は、労働力、物資、金融、宣伝等あらゆる面についての総動員(総動員とは同法第1条で規定されている。その条文は「国家総動員トハ戦時(戦争ニ準ズベキ事変ノ場合ヲ含ム以下之ニ同ジ)ニ際シ国防目的達成ノ為国ノ全力ヲ最モ有効ニ発揮セシムル様人的及物的資源ヲ統制運用スルヲ謂フ」である)についての根本的な規定を記したものである。労働力の総動員としては、同法の規定では総動員業務(総動員物資の生産、修理、配給等の業務、国家総動員上必要な通信、運輸、宣伝など。これについては第3条で規定があり、さらに総動員物資が何であるかは第2条に記されている)への従事としての徴用と総動員業務への協力の二つの形態がある。従事と協力との違いは、明確に条文には書かれていないが、要するに、前者は全面的にその仕事のみを長期間続けるということであり、後者は他の仕事に就きながら、あるいは学業や家事労働をメインに生活を行う者が総動員業務を臨時的に行うということである。そして、国家総動員法第4条と第5条は、それぞれ総動員業務への従事である徴用とそれへの協力について、別の法令を勅令によって定めるべきことを記しており、実際に各種の勅令が定められた。徴用に関して見れば、もっとも著名なものとして国民徴用令が国家総動員法第4条に基づいて出された。ただし国民徴用令によってのみ徴用が行われたわけではない。特殊な職種についての個別の徴用に関する勅令があるほか(船員徴用令、医療関係者徴用令)、軍需会社法と軍需充足会社令に基づくものがあった。これらの法令は、軍需会社・軍需充足会社に雇用されている者を徴用されたと見なすことが記されていたのである。軍需会社・軍需充足会社の指定は政府が行った。協力についての勅令は、国民勤労報国協力令、女子挺身勤労令、学徒勤労令が出された。これらに基づき、それぞれ、主に一般市民を動員対象とする国民勤労報国隊、未婚の女性と女子学生を動員対象とする女子勤労挺身隊、学生を対象とする学徒報国隊が組織された。国家総動員法に基づく、徴用と協力による動員は以上であるが、しかし、国家総動員法とそれに基づく勅令によらない戦時動員もある。行政当局の呼びかけ、指導による、上記の法令によらない各種の勤労奉仕は、当時の新聞等を読めば日常的に行われていたことがわかる。また、女子勤労挺身隊は、女子挺身勤労令という法令が出される1944年9月以前にも、結成されている。そして、戦争遂行のためのかなり重要な労働力となっていた朝鮮人の戦時動員も大半は国家総動員法とそれに基づく勅令とは無関係である。1939年度から毎年、日本帝国政府によって労務動員実施計画(1942年度からは国民動員実施計画)が策定され、それに基づいて日本内地等の炭鉱・鉱山、土木工事現場などで必要とする労働者が朝鮮半島で集められ、移送、配置されたことはよく知られているが、国家総動員法は労務動員実施計画・国民動員実施計画の策定と遂行を義務付けているわけではない(それについての規定は条文のどこにも出てこない)。そして、そのための要員確保は1944年9月以降、国民徴用令を発動して遂行されるようになったが、それ以前は「募集」や「官斡旋」と呼ばれた手続きで行われていた。この募集・官斡旋は行政内部の手続き等を定めた要綱に基づいており、関係する法令は、朝鮮における一般的な職業紹介に関わる法令である、朝鮮総督府の府令(おおむね各省の省令レベルのもの)の労働者募集取締規と制令(朝鮮総督が勅裁を経て出すもので、日本内地の法律レベルのもの)として出された朝鮮職業紹介令である。なお、朝鮮人については朝鮮内で人員を集めて別の事業所に配置するという戦時動員も行われていたが、これも官による「斡旋」によるものである(日本内地行きの人員を集める場合と似た手続きによるが要綱は異なる)。

(5)帝国臣民の慰安婦としての動員
 帝国臣民を慰安婦としたことは、上記のどちらになるのか、あるは別のカテゴリーであろうか。これについて考える前に、そもそも慰安婦とされた人は、誘拐、拉致、監禁、強姦(しかも長期にわたる連続的なもの)という犯罪の被害者であり、戦時動員された人とは区別すべきだという見解について検討しておく必要があるだろう。慰安婦がそうした犯罪の被害者であることは、これまでの研究で実証されている。しかし、強姦はともかく、男性の労働者についてもやはり拉致同然に連れてこられて監禁された状態で奴隷労働を強いられたケースがある(朝鮮半島から動員された人びとについてそれが多発した)。その点を考慮すると法に触れる著しい人権侵害が発生したかどうかだけをもって、慰安婦を戦時動員の範疇から除外することはできない。そして、慰安婦については、帝国政府の計画や閣議決定、軍令や一般行政機関の通牒といったものには基づかないが、軍が人員確保や移送、管理に関わっていたことがこれまでの研究で確認されている(現在の日本政府が見直していない―今のところは―河野談話でもその点が記されている)。これは軍が総力戦遂行のために必要と考えて行った措置であろう。それゆえやはり、慰安婦も戦時動員の一つであったと見なすべきである。
 さて、周知のように、慰安婦は軍との関係が強い。だが、軍が慰安婦を直接雇用したわけではなく、その地位や待遇は兵士や軍属と並べて論じることは適当ではない。しかし一方で、日本内地の軍需工場や炭鉱・鉱山、土木工事現場等々で働いていた、動員された労働者とも相当に異なる条件がある。軍の意思をもとに集められて、売春を強いられた慰安婦について、一般行政機構は軍の意向と無関係に何らかの関与をすることは不可能であったし、そもそも、彼女たちは、一般行政は行われていない日本の占領地・戦闘地域にいたのである。この点を考えて、慰安婦については、軍直接雇用の兵士・軍属とも異なり、日本帝国内の民間事業所や軍以外の官公庁関連の雇用・労働力提供を行った人びととも区別して考えるのが適当である。

3、戦時動員における多様な国家性・強制性

(1)前提としての合法性・社会的統合の維持
 戦時動員についてしばしば見られる、あるいは起こりうる不正確な理解として、それがあたかも絶対権力者が恣意的に発した命令によって奴隷のような境遇を強いるものであったとか、すべてのケースがそのようなものであったという認識がある。確かに、占領地・戦闘地域にいた外国人を使役するといった場合にほとんど法を無視したむき出しの暴力が発動されていたことは否定できない。また、朝鮮人の炭鉱等での労働では、奴隷労働というに相応しい実態が相当にあったことも証言のみならず、当時の労務管理関係者の残した文書からも確認できる。
 だが、自国民以外の動員は別として、言い換えれば内地人のみならず外地人(=外地籍者)の動員も含めて、日本帝国は、法に則った動員を行おうとし、自国内の社会的統合の維持にも留意していた。これは当然のことである(結果として合法ではないことが行われ、社会的統合も一部で破綻しかかっていた事実があることは否定できないが)。
 そもぞも、近代国家自体がそこで決められた法を無視することは、自己否定である。動員すべき人の選定、確保、動員された人びとの処遇において法令を守るべきという規範が崩れてしまった場合、統治機構自体が崩壊に向かいかねず、動員自体も機能しなくなる可能性すらある。このこととも密接に関連するが、国民が自国の政府を信用しなくなった場合も、統治自体の危機につながる。もちろん、自国政府に批判的な国民はどこでもいつでもいるわけであるし、そのほうが健全な社会と言えるだろうが、しかし戦時において歯止めが利かなくなるほどにそれが広がる、あるいは広がる兆候が現れた場合は、その国は大きな危機に陥る。したがって、戦時においてはとりわけ、国家は自国民を大切にし、信頼をつなぎとめておかなくてはならない。付言すれば国家から離反する可能性がある人びと―台湾人・朝鮮人は敵国陣営内に同じ民族がいるし、日本の支配から離脱しようと様々な運動を繰り広げてきた人びとであった―は、そうであるがゆえに一層、国家に対する信頼をつなぎとめるために配慮しなくてはならない存在であった。わざわざ国家が自国民を虐げるようなことをするのはあってはならず、それがあった場合には国策にとってマイナスであるということは、日本帝国の為政者も認識していた(少なくともそのことが求められていた)。もちろん、実態として戦時動員の対象となった人びとは酷い扱いを受けたことも事実である。軍隊では古参兵・上官による初年兵らへの殴打、理不尽ないじめは日常茶飯事であり、徴用された職場の状態もそれとそう変わらなかった。とりわけ朝鮮人は悲惨な目にあった。ほとんど合法性無視で動員が行われ、労働現場でも人権無視の奴隷に近い状態に置かれていた朝鮮人が多数いることは、当事者の証言、これまでの研究(筆者も些少ではあるがそうした研究を行ってきた)から否定できない。また、日本人のなかには朝鮮人を人間扱いしないほどに差別していた人びとがいたことも確かである。しかし、朝鮮人も含めた被動員者を、国家の政策としてわざわざいじめるようなことは目指されていなかった。法に触れるような行為による動員、当時の基準以下の労働環境といったことは、本来あるべき戦時動員からの逸脱であり、構造的な問題によって陥った政策の失敗であったのである(朝鮮人労働者の「日本内地移入」について、そうした失敗がなぜ起こったのかについての考察は拙著『朝鮮人強制連行』岩波新書、2012年、を参照されたい)。

(2)国家の強制に限定されない要員確保の手段
 戦時動員についてのもう一つ、しばしばある誤解は、それがすべて国家権力の直接命令による、強制的な労働配置であるという認識である。確かにそのような形態による戦時動員もある。徴兵と徴用は明確にそうである。前者は国家が行う徴兵検査の合格者を徴集するもので、検査を受けなかったり、徴集の命令に応じなかったりした場合は、法律違反で罰を受けなくてはならない。後者も厚生大臣等が指定する事業所での業務への従事を行政命令で行うものであり、その人員の選定は国営の職業紹介所(後の国民職業指導所、国民勤労動員署)が行い、違反した場合についての罰則も国家総動員法に定められている。また、国民勤労報国協力令、女子勤労挺身令、学徒勤労令による協力も、国家による命令に限りなく近いものと見なすことができる。これらの法に基づく、ある事業所に対して労働力を提供するべき人員の選定と伝達は、市町村長や企業の長、学校長など国の機関の長ではない人物が行う場合もあったが、いずれにしてもそれは厚生大臣や地方長官(都道府県知事)、台湾総督・朝鮮総督の命令をもとに進められた。これらの国家総動員法第5条に記された、総動員業務への「協力」については罰則の規程はなかったが、しかし女子勤労挺身令、学徒勤労令では別な形態で罰則を下しうるような条文を挿入しており、その発動可能性が公にされていた。
 だが“いつでも、どこでも、だれにでも”国家命令で動員を行ったわけでは決してないのである。そうではない形態の動員はいくらでもある。根拠となる個別の法令がなく、したがって行政命令の文書が交付されるわけではない勤労奉仕は珍しくないのである。もちろん、それは臨時的なものが多いが、しかし、女子勤労挺身令が出来る前に結成されていた、女子勤労挺身隊のように1年以上の長期間の出動となる動員でもそれはあり得た。
 また、前述のように、1939年度以降、政府によって労務動員実施計画・国民動員実施計画が策定されており、そこでは、戦争遂行のためにどの産業に何人の労働者を新たに就労させるべきかが記されていた。しかしこれら計画で算定された必要な労働者の充足は、むしろ、徴用以外の手段、具体的には職業紹介所(後の国民職業指導所、さらに後には国民勤労動員署)による職業紹介や、自己志願、知人等の個人的な伝手をたどった就職(=縁故募集)によって行われていたケースのほうが多い。動員計画の人員充足において徴用を用いたケースは労務需給が逼迫している、日本内地で徴用がもっとも活発に行われた1943年度(朝鮮人の徴用はこれよりあと)でも19.9%程度と推定されていた。なお、それ以外の方法は新規学卒者の就職が15.0%、一般職業紹介31.6%、縁故募集による者31.6%、朝鮮人労働者の「移入」1.8%である。ただし一般職業紹介と縁故募集=知人等の紹介で就職が同じ数字であるのは、これらが同水準であるとの厚生省の推測による(以上、厚生省勤労局「昭和十九年三月昭和十八年度に於ける国民動員実施計画充足実績調」)。また、労務動員実施計画・国民動員実施計画に計上されていた朝鮮半島における日本内地に配置すべき要員の確保も、1944年9月以前は徴用以外の方法によって行われていたことは前述した通りである。
 この点については、日本帝国にとっても“いつでも、どこでも、だれにでも”強制による戦時動員に依拠することは、合理的な施策ではないし、望ましいことではなかったことにも注意しておく必要がある。まず、あらゆる動員に国家が直接介入することはコストがかかり過ぎた。徴兵や徴用では、国家が揃えた対象者のリストから人を選び、行政命令を伝達するという一連の流れで、書類作成、責任者の決済等々事務作業が必要となる。その作業に関わる人員と人件費自体が相当な負担となる。同様の手続きを防空壕掘りや金属回収の手伝いのために適当な人材を探す作業にまで拡大するのは明らかにばかげている。その点とも関係するが、たとえいかに国策上重要な事業所であったとしても、それが民間企業であるならば、そこでの労働力確保はその企業に責任があったわけで、なんでも国家にお願いするわけにはいかなかった。当たり前であるが、求人広告の広告費を節約するために政府に頼んで国民徴用令等を発動してもらうというのは、論外であったし許されなかったのである。法的にも徴用による人員配置を申請できるのは職業紹介所を通じた人員充足ができない場合となっていた。
 さらに、国家の決定による強制配置という、いわば“重い”動員は、それゆえにいったんなされた決定を取り消すのにも手間がかかるという問題もある。徴用命令は通常2年間、その職場に「釘付け」するものであり、その仕事に適性がない、本人にやる気が無いというような場合でも、雇用者は勝手に徴用で配置されてきた労働者を解雇することができなかった。仮に明らかに配置先の作業に適正をもたず、意欲のない被徴用者がいたとしても、雇用主はその人物をすぐに解雇することは不可能である。そうしたければ、まず、徴用解除を申請して厚生大臣の許可を得なければならなかった。これは自己の利潤を追求する企業にとってのみならず、国家が進めようとしている戦争遂行上も、マイナスである。国の命令による強制は慎重に行う必要があったのである。
 このほかにも、日本帝国にとって、強制的に行う戦時動員について慎重にならざるを得ない理由は上記のほかにもあった。それは国家の意思として強制を行うということは、それだけに責任を伴うというためである。この点は後述する。

(3)明示された国家命令以外の事実上の強制
 以上のように、戦時動員のすべてが“いつでも、どこでも、だれにでも”国家が強制したわけではない。むしろ、国家の意思を明示せず、強制性の法的裏づけのない動員のほうが、コストがかからず、使い勝手のよい労働力の確保という意味では望ましかったのである。
 ただし、ここで注意すべきは、国家の意思の明示や強制性の法的裏づけがないにもかかわらず、実態として強制=個人の意思を無視した動員はいくらでもあったということがある。そもそも、戦時体制が構築されて以降、日本帝国臣民の誰であっても、どのような方法を通じて戦争に積極的に貢献するか、という範囲から逸脱した自由意志の発揮は可能ではなくなっていた。
 前述のように、労務動員実施計画・国民動員実施計画に関わる人員充足は主には職業紹介所、自己志願・知人等の紹介を通じて行われている。ここから、確かに就職先を最終的に決定したのは各個人の選択と言える。しかし、その「選択」の背景には、しばしば、このまま職を持たないでいると、あるいは平和産業での仕事を続けていた場合、自分の意思とは無関係の事業所に徴用されることへの懸念が存在していた。そして、徴用されないために入り込む事業所も、(本人にとっては徴用されて配置されるよりはましであったにせよ)多くは軍需工場などであり、国家が動員による人員充足を望んでいた職場であった。
 このような、“ほかに選択肢がないし、状況を見ればどこか国策上必要な職場に移動したほうがよい”ということを背景に動員された人びとは植民地においても存在するであろう。ただし、植民地、とりわけ朝鮮においては極めて過酷な状況があったことを確認しておかなければならない。朝鮮人強制連行という用語が定着している、労務動員実施計画・国民動員実施計画に基づく朝鮮人男性の動員は、1944年9月以降の国民徴用令発動以前には、国家による行政命令として要員確保が行われていたわけではない。しかし動員計画は政府の決定であり、とりわけ、日本内地への朝鮮人労働者の送出は国策上の重要任務であることを朝鮮総督府は何度も表明していた。それが国家の要請であることを疑う人物はいなかったであろう。そのことを背景に、国民徴用令発動以前の要員確保においても朝鮮総督府の指示によって、面事務所の職員や駐在所の警官が関与することとなった。そして、そのもとで、「拉致同様」の要員確保が展開されたのである。このことは、行政当局者による同時代の史料においても確認できる(内務省嘱託小暮泰用より管理局長宛1944年7月31日付「復命書」)。もっとも、植民地においても、直接的な物理的な暴力にのみ依拠して要員確保が進められていたわけではない。“お前が行かなければ代わりに兄弟や親を動員する”といった威脅、“この集落から何人かは出なければならない”といった共同体内の圧力(もちろんそれは根本的には国家による要請を背景としていた)によって、動員に応じざるを得なかったという人もいる。そもそも、日本の官憲が絶対的な権力者として存在しているという認識が浸透していたなかでは、自宅に警官や村役場の職員が来ただけで、恐怖を感じて逆らえなかった朝鮮人もいたであろう。また、植民地における慰安婦の要員確保も、直接的な軍人による連行ではないが本人の意思を尊重することなしに行われた。要員確保にあった募集人たちは、仕事の内容を伝えず、甘言でだまして女性たちを連れていったのである。以上に加えて、何の疑いもなく、積極的に国策に協力することが美徳であるということを信じる人びとが作り出されていたことにも注意しておくべきだろう。彼らのなかには、志願して労働力、兵力の提供を行った者がいた。特に、物心ついた時点ですでに準戦時体制、戦時体制にあり、上意下達のもとで国策協力を行うのが当然という教育を受けてきた当時の若者のなかには、そうした人びとは少なくなかったであろう。だが、そうした人びとの「志願」が、単純に個人の意思による決定であると見なしてよいだろうか。むしろ、社会全体における長期間のイデオロギー教化を通じた強制、とでも呼ぶのが適当である。
 逆に、徴兵や徴用等による戦時動員であっても国家の役に立てることを喜んでそれに応じた人も、いないわけではない。つまり、法的な強制力の裏づけのある戦時動員であっても、イデオロギー的教化による自発性を無視できないものもあったということである。
 さらに言えば、イデオロギー教化が、民衆の多くに浸透した場合、コミュニティ内部の監視も戦時動員を機能させる重要な要素となっていたことにも注意しておく必要がある。戦時下においては、特に法的な裏づけのある(拒否した場合において罰則のある)ものでなくとも、国策上の意義を持つ勤労奉仕は、町内会等を通じて実施された。これは町内会やその下部組織である隣組において、それを拒否する者はコミュニティ内部で排除されかねないという意識が共有されていたからにほかならない。

4、戦時動員の国家性・強制力と名誉・処遇との関係

(1)国家性・強制性と名誉・処遇の比例という当為と原則
 以上のように一口に戦時動員といっても、実は、国家の命令であることが明示されている場合とそうでない場合があり、それと関わって強制の形態と度合いも多様となっていた。ではなぜ、そのような多様性はなぜ、生じていたのか。また、その差異は何をもたらしたのだろうか。
 まず、国家の命令であることが明示されるか否か、どの程度のどのような強制力をもって要員確保を進めるかは、その動員がどれだけ国家にとって重要であるのかに関係している。ある町内会での防空壕掘りや金属類の回収は確かにそれなりに重要であるかもしれないが、少々人がつまらなくても国全体の問題にはならない。したがって、それにわざわざ国民徴用令を発動して、厚生大臣の決裁を得て行政命令を下す必要はない。しかし、戦争を実際に行う兵士は、良質な「人的資源」を確実に集めなければ、国家の危機を招く。それゆえに徴兵は国家以外に任せることはできないほど重要である。また、軍事作戦展開上極めて重要な物資を作る軍需工場等で人員が不足しているとなれば、これも、国家に多大な影響を及ぼす。その場合には、国家性を明示し、強制性の度合いの強い国民徴用令等に依拠した動員が行われる。
 そして、そのように国家性が明らかであり、法的な裏づけのある強制力をもって進める動員では、動員された人びとの名誉や処遇についても国家が責任をもって必要な措置を取ることになっていた。その名誉や処遇は国家性の明示、強制力の度合いに比例していた。これは、比例させるということを国家として表明したわけではないが、実態としてそうなっていることを考えれば、それが当為であり、原則であるということは、関係者の間で理解されていたと見るべきである。
 もっとも名誉ある存在として扱われるのは兵士である。兵役は憲法で規定された義務であり、個別の法令として兵役法で徴兵検査、徴集が行われている。兵役に就いた人びとは国家の栄誉ある任務を担う者と見なされている。外地籍者の志願兵は義務ではないが、それだけに特別な栄誉ある存在として宣伝された。そして、本人が死亡したり、怪我をしたりした場合には本人やその家族が、埋葬料の支給、障害の程度に応じた金銭的扶助、職業の斡旋、遺児の育英資金の給付等の軍事援護を受けられることになっていた。もっとも、兵士の処遇は決してよいわけではなく、給与も少ないし、危険な戦地に赴くなど業務遂行の環境の問題もある。しかしその点についても、少なくとも国家がそれについて責任を持っていたということは変わらない。
 兵士ほどではないが、兵士に準じる扱いを受けたのが、徴用された人びとである。国家総動員法には徴用に応じなかった者については1年以下の懲役または1000円以下の罰金に処することが規定されていた(第36条)。徴用は法的裏づけをもった強制力の度合い動員だったのである。そうである徴用は、やはり、業務上の傷病等に対する扶助や、従前の収入の補填を行いうることを法令として定め(国民徴用令の第18条、第19条など)、被動員者とその家族に対する援護の政策を準備していた。徴用発動が少なかった時点ではそれは十分ではなかったが、被徴用者が増加していった時点では制度やそれを担う機構の整備が進んだ。具体的には1942年1月に厚生省令として国民徴用扶助規則が施行され、さらに1943年5月に財団法人国民徴用援護会の発足を見て上記のような勤労援護が進められることになる。また、1943年9月には、徴用された人びとに対して応徴士という称号が与えられ、国家の褒章制度も整備された。国家総動員法第5条に規定された総動員業務への協力である戦時動員は、徴用ほどの強制性はない。国家総動員法は協力を拒否した場合については罰則規定を設けていないからである。ただし、国民勤労報国協力令と女子挺身勤労令および学徒勤労令では若干、強制性は異なる。後二者は国家総動員法の第6条にも基づく法令となっており、第6条については命令を拒否した場合、徴用拒否と同様の罰則を下すことが可能であった。之に対して国民勤労報国協力令では国家総動員法第5条のみによるものであり、拒否した場合の罰則はない。また動員期間は女子勤労挺身令の場合は概ね1年であるが隊員が同意した場合はそれ以上も可能、学徒勤労令では1年以内となっているが、国民勤労報国協力令では1年のうち30日(のち60日)以内だが本人の同意でそれを超えることも可能という違いもある。したがって、女子勤労挺身令(女子挺身隊)と学徒勤労令(学校報国隊)のほうが、国民勤労報国協力令(国民勤労報国隊)より、強制性の度合いが強いと言える。そして、女子勤労挺身令と学徒勤労令では、傷病・死亡の場合の本人ないし遺族への援護、労働条件等について行政当局が命令を出すことについての条文がある。援護の内容は徴用ほど充実しているわけではないが、国家が被動員者の生活や労働についてある程度の責任を持つことにはなっている。これに対して国民勤労報国協力令では同様の条文はない。ただし、1944年5月9日の閣議決定「被徴用者等勤労援護強化要綱」では国民勤労報国協力隊についても必要な援護措置をとるべきとの文言がある。以上のような国家総動員法とそれに基づく法令によらない、行政が指導してはいるが任意の勤労奉仕であるような戦時動員の場合は、援護措置はなく、国家の褒章制度も不在である。根拠法たる女子勤労挺身令ができる以前に結成されていた女子挺身隊も基本的にはそうである。ただ、女子挺身隊については、1944年5月9日の前記の閣議決定でやはり必要な援護措置をとるべきことが確認されている。

(2)労働力不足と戦時動員の原則の矛盾
 以上のように帝国臣民の社会的統合を意識する場合において、日本帝国政府は「国家性と強制力の度合いの強さに見合った名誉と処遇を与える」ということを当為とし原則としていた。このことは、「名誉もそれに相応しい処遇を付与できないような業務については国家性を明示した強制的な動員を行わない」、あるいは少なくとも「行いにくい」ということにもなる。だが、日本帝国政府は、もしその暗黙の原則を守ろうとするならば、戦時下の労働力不足への有効な対策を打ち立てることができないという深刻なジレンマに直面していた。
 必要な労働力が確保しにくく、しかしもしその業務が滞ったり、生産量が低下したりした場合、戦争遂行上多大な影響を与えるものとしては、炭鉱・鉱山や土木建築工事での労働、港湾荷役作業があった。なぜ、これらについてとりわけ人手不足が問題になっていたのかは、明白であった。これらの業務は、危険であり、劣悪な労働環境で、前近代的な労務管理のもとで行われるものであることが広く知られていたためである。したがって、これらの業務の担い手に、国家性を明示して強制的に動員された名誉やそれに相応しい処遇を用意し与えることは極めて困難であった。であるならば、こうした業務の職場に、国家の命令による強制性の度合いの強い動員=国家総動員法にいう徴用や協力を実施することは、上記の原則を維持しようとするならばありえない。
 実際、日本帝国政府は戦時動員を開始した当初、これらの職場への徴用ないし協力の実施を想定していなかったか、少なくともかなり慎重に考えていたと見られる。まず、土木建築について見れば、1942年1月31日以前においては徴用や協力は法的に不可能であった。国家総動員法での徴用や協力とは、総動員業務への従事や協力であり、そこで言う総動員業務は第3条1〜8に列挙されている。しかし、そこは土木建築労働を総動員業務と見なしうるような文言はなかったのである。ただし、国家総動員法第3条9では、1〜8までに列挙されているもの以外にも勅令で総動員業務を指定しうるとする規定があった。これに基づいて、1942年1月31日に総動員業務指定令が公布施行されて、土木建築が総動員業務に加えられたのである。ただし、その時点でも「軍事上特に必要なる土木建築に関する業務」という限定がついていた。これがほぼ限定なしとも言える「国家総動員上必要なる土木建築に関する業務」を総動員業務となったのは、戦争末期の1945年2月28日のことである。一方、炭鉱・金属鉱山での労働と港湾荷役と総動員業務との関係についての解釈は微妙である。第3条に列挙されたもののうちには、燃料ないし金属原料の採掘や港湾における荷役作業といった文言は見当たらない。ただし、炭鉱・金属鉱山での労働は、国家総動員法第3条1「総動員物資ノ生産、修理、配給、輸出、輸入又ハ保管ニ関スル業務」(総動員物資については国家総動員法第2条で列挙されており、そのうちには「国家総動員上必要ナル燃料及電力」や軍用物資等の「生産、修理、配給又ハ保存ニ要スル原料、材料、機械器具、装置其ノ他ノ物資」がある)のなかに、港湾荷役は第3条2「国家総動員上必要ナル運輸又ハ通信ニ関スル業務」に含まれると考えることが可能である。しかし、炭鉱・金属鉱山や港湾荷役の人手不足への対処としての徴用実施は少なくとも早い段階では行われていない。炭鉱では1942年度から勤労報国隊の受入れが実施されているものの、徴用については1944年9月以前には、軍需会社に指定された会社の従業員が徴用されたことになったほか、関連する動きは見られない。港湾荷役については1944年10月段階でもまだ新規徴用は行われていなかったことが確認できる(蒲章「港湾荷役と『徴用のこころ』」『白襷』第1巻4号、1944年11月号、には「港湾運送に於いても、近く応徴戦士に依る敢闘を願ふことになる様であるが」との記述がある)。だが、1944年9月、あるいは1942年1月以前においても、炭鉱・金属鉱山、土木建築、港湾荷役での労働力は不足していた。では、そこで必要となる労働力を確保するためにはどうするか。そのための施策は前述の戦時動員の暗黙の原則から外れたものとならざるを得なかった。そしてそれは主として朝鮮半島の朝鮮人を対象として進められたのである。

(3)朝鮮人労務動員における差別と失敗
 ここで、朝鮮半島の朝鮮人を日本内地の炭鉱や土木建築工事現場に連れて来て働かせた、朝鮮人労務動員の法制度、国家性、強制性の度合いについて確認しておこう。朝鮮人労務動員は閣議決定された労働動員実施計画・国民動員実施計画に基づいたものであり、したがって国家が進めた政策であることは明らかである。また、朝鮮総督府はこれを重要施策として、取り組むべきことを指示していた。しかも国民徴用令発動以前の募集や官斡旋と呼ばれた要員確保には、朝鮮総督府の末端行政機構の職員や警察官が関与していた。募集は民間企業の労務補導員と呼ばれた募集人が要員確保にあたったものの、末端行政機構の職員や警官もこれに協力することになっていたし、官斡旋は文字通り行政機構が主体となって要員確保を進めたものである。その意味で、朝鮮人労務動員の国家性は明確であった。付言すれば、日本内地行き労働者の送出が重要施策であることは、当時から新聞報道等を通じて関係者以外の人びとにも伝えられていた。
 だが、1944年9月の国民徴用令発動以前の朝鮮人労務動員での要員確保には法的な強制力の裏づけはない。行政命令で特定の事業所での業務への従事を強いているわけではない。したがって、仮に募集や官斡旋を担当している行政機関の職員が、ある朝鮮人に日本内地の炭鉱で働けと言ったがそれを拒否したという事例があったとしても、その朝鮮人が法的な処罰を受けることはなかった。
 しかし、実態としての強制は存在した。この点は朝鮮人自身の証言のみならず、当時の公文書や要員確保に出向いた民間企業の関係者の記録からも裏付けられる。しかも強制の度合いは、極度に強かった。朝鮮人の労務動員は「拉致同然」と言われるような実態となっていたのである。内地人の場合、事前に地域の有力者らに頼んで、徴用対象から外してもらうことも可能であったことを考えれば、朝鮮人労務動員は募集にせよ官斡旋にせよ、実態としては内地人の徴用よりよほど強制力を持っていたと言うことが出来る。
 ところが、以上のように国家性と実態としての強制性があるにもかかわらず、朝鮮人労務動員の場合、それに見合った名誉も処遇もまったく付与されなかった。募集、官斡旋で動員された朝鮮人には名誉ある(と政府が言っていただけであって本当にそれを名誉あるものと考えている人はほんどいなかったが)応徴士の称号で呼ばれるわけではなかったし、配置された職場は、危険で劣悪な環境でありしかも前近代的な労務管理が横行していた。しかも、徴用ではないので、各種の援護を受けることもなかった。負担や犠牲のみ多くてそれに対して国家は何も補填もバックアップもしなかったのである。
 内地人に対する戦時動員ではほとんどありえないこのような政策は明らかに差別であった。ただし、朝鮮人労務動員についてもまったく社会的統合を意識していなかったわけではないことにも注意しておく必要がある。特に朝鮮統治を任されていた朝鮮総督府では、朝鮮民衆の反発に敏感になっていた面がある。
 もちろん、差別的、抑圧的な施策を根本的に変えることはできなかったし、官僚たちもそれを目指したわけではなく、差別や人権無視は横行していた。しかし、朝鮮人労務動員を円滑に進めるため、社会的統合を意識した施策がなかったわけではないのである。そもそも、国民徴用令を発動したこと自体が差別の撤廃であった。これは朝鮮人労務動員を、国の行政命令と法的強制の裏づけを有する、いわば「通常の日本帝国臣民並み」の、「格上」の動員にすることを意味していた。これにより日本帝国政府は被動員者の朝鮮人にかかわる処遇についての責任を持つこととなり、徴用された朝鮮人は応徴士としての名誉を与えられた。そして、朝鮮人に対する徴用を発動するにあたっては、朝鮮総督府が中心となって、朝鮮半島在住の朝鮮人の被動員者およびその家族に対する援護、別居手当の支給を可能とするための施策が準備された。それをになう機構として1944年9月には財団法人朝鮮勤労動員援護会が発足、朝鮮総督府内でも担当の課が置かれた。なお、朝鮮勤労動員援護会の行う援護は国民徴用令による徴用のみならず、官斡旋によって動員された朝鮮人とその家族にも及ぶという制度設計になっていた。これは官斡旋の国家性や強制性が追認されたということを意味している。また徴用の配置先の事業所について、朝鮮内では小磯国昭総督が自ら陣頭に立って視察、日本内地側に対しては関係する部局の官吏を派遣して朝鮮人労働者に対する処遇の徹底的刷新改善を期したとされる(大蔵省管理局『日本人の海外活動に関する歴史的調査通巻第10冊朝鮮編第9分冊』1950年?68頁)。
 だが、制度や政策の枠組みを作ったからといって必ずそれが機能し効力を持つわけではない。機能や効力の面に着目してみれば、朝鮮における被動員者やその家族に対する援護はほとんど意味をなさないまま戦争終結を迎えたというのが現実であった。動員された朝鮮人の処遇や労務管理の改善があったことはまったく伝えられていない。物資が乏しくなっていったことを考えればそれは物理的に不可能であっただろう。また、朝鮮勤労動員援護会の行う事業は、それを担う行政機構の事務能力の問題や朝鮮民衆の低い識字率などが制約となり、行き渡らなかった。この点は当時の新聞報道でも問題になっているほか、戦後にまとめられた朝鮮統治関係者の執筆によると考えられる史料にも記述がある(大蔵省管理局『日本人の海外活動に関する歴史的調査通巻第10冊朝鮮編第9分冊』1950年?73頁には「援護の完璧を期した」が「空襲に伴ふ通信の不円滑又は援護機関の末端不整頓のため送金極めて円滑を欠き政府に対する更に新しき不信の声となって遂に終戦となった」と記されている。)。
 以上から、朝鮮人労務動員は、帝国臣民の労務動員でありながら、差別的政策であり、戦争末期にその若干の修正が試みられて失敗したものであると評価できる。差別的であるというのは、内地人には行わなかった、危険で劣悪な労働環境で前近代的な労務管理の事業所への国家による事実上強制的な配置を朝鮮人のみに対して行い、しかも名誉も相応しい処遇も与えなかったためである。そして、修正の試みと失敗とは、国民徴用令の発動、援護等の施策の整備などの、本来あるべき帝国の臣民としての動員の原則を踏まえたものに近づけようという施策があったこと、だがそれが実質的には効力を持たなかったということを指している。

(4)「臣民以下の臣民」としての慰安婦の動員
 帝国臣民の戦時動員ではあるが、前述の暗黙の原則から外れていたものは、朝鮮人労務動員(朝鮮半島の朝鮮人を対象とする炭鉱・金属鉱山、土木建築工事等への配置)以外にもある。慰安婦としての動員がそれにあたる。
 慰安婦としての動員は、誰がどのように行ったのかについての事実解明は、1990年代以降、研究が進められてきた。それによれば、軍の意向によって慰安婦とする女性の確保が始まったこと、募集には民間業者が当たっていたこと、業者の選定には内務省や朝鮮総督府も関与したとされている。その際には威脅や詐欺・甘言などの手段が用いられて本人の意思とは無関係に連行されたケースがあったことも証言等から確認されている。では、慰安婦の戦時動員は、どのような法的根拠に基づいてなされたのであろうか。慰安婦に関する本格的な歴史研究が不在であった時期にジャーナリストによって書かれた書籍を読み直すと“徴用令によって慰安婦が動員された”といった文章を目にすることがあるが、これは正しくない。国家総動員法に記された総動員業務には、当たり前だが「男性に対する慰安」は含まれないし、それを総動員業務に加えるという勅令が出たこともない。ゆえに慰安婦の動員を国家総動員法の徴用や協力として実施することは不可能である。また、労務動員実施計画・国民動員実施計画にも「慰安婦」あるいはそれを指すと思われる業務の項目の記載はない。付言すれば、朝鮮半島から朝鮮半島以外の地域に動員すべき人員の給源を記した表における女性の数字はゼロである。そして、慰安婦の募集が重大な任務である旨の指示や声明を国家が出したことは確認できない(秘密裏に何か通牒を発したもののそれが焼却されて残っていないといった可能性はあるが)。要するに、慰安婦の要員確保においては強制力についての法的裏づけはなく、国家性も明示されていなかったのである。それゆえ、実態として軍や警察、一般行政機構が関与し、本人の意思を無視した強制的な方法が用いられた動員であるにもかかわらず、日本帝国政府は、国家によって戦時動員された者に相応しい名誉や処遇を与えるという施策を慰安婦については放棄することができた。このことから、慰安婦とされた女性たちは、朝鮮人労務動員の対象となった炭鉱等に配置された朝鮮人男性たちと同様に、差別的な戦時動員政策の被害者であるということができる。ここでさらに問題になってくるのは、朝鮮人労務動員の場合には、国民徴用令の発動や援護施策を実施する法制度や機構の整備などの差別の解消が目指されたが、慰安婦の場合はそれすらなかったということである。これは、朝鮮人労務動員は、特に秘匿された政策ではなかったし、その遂行を担った朝鮮総督府等も、被動員者が帝国臣民であること、したがって彼らもまた社会的統合の対象であることを意識していたためである。だが、慰安婦とされた帝国臣民たる女性たちもついては、そうした名誉や処遇をほかの戦時動員された帝国臣民なみに近づけようとする動きはまったくなかった。これは慰安婦の動員が秘匿されていたことがもっとも大きな原因であるかもしれない。と同時に、軍にせよ、朝鮮総督府や内務省などの日本帝国政府の機構にせよ、賎業とされていた売春の従事者(実態は監禁されて強姦され続けた人であるが)、そのような境遇に陥った人びと―その多くは貧しい家庭に育った朝鮮人女性たちであった―に名誉を付与したり処遇を改善したりしようとする発想自体を持っていなかったとも考えられる。慰安婦とされた帝国臣民の女性たちは、結局のところ、帝国臣民としての社会的統合の対象外に置かれた存在だったのであり、「臣民以下の臣民」としての戦時動員の被害者であったと言えよう。

5、まとめ ―国家による強制連行ではない、だからこそ問題―

 日本帝国が行った戦時動員とは何か、それがどのような法制度のもとに行われていたかについて、説明してきた。これについてのまとめを示せば次のようである(なお、付表も参照されたい)。
 戦時動員は、帝国内での帝国臣民を対象とするものとそれ以外のものに分けられる。後者は占領地・戦地で行われた、法を無視したむき出しの強権的な労働力収奪・連続強姦に近いものである。しかし、自国内における自国民を対象とする動員でそうしたことが行われ、発覚すれば大問題である。日本帝国政府は、当時の法令に基づいて遂行することを前提とし、社会的統合の維持にも留意しながら帝国臣民の戦時動員を進めた。
 それゆえ、一般的な戦時動員では、国家性、法に裏付けられた強制の度合いの強さに比例して、名誉と相応しい処遇が与えられていた。国家が最重要視しそれゆえ国家自身が法的強制力をもって集められ、勝手な離脱は決して許されなかった兵役に就いた人びとは、名誉ある行為と称えられ、その死や怪我に対しては援護が約束されていた。国家の行政命令であり、それを拒否した場合には法に基づく処罰が下されることになっていた徴用についても、兵士に次ぐ名誉と処遇が与えられた。徴用された人びとは名誉ある応徴士と呼ばれ、酷い待遇や劣悪な労働環境での労働がないように政府が監督し、援護の施策も兵士に準じる形で整備されていた。逆に、国家が直接命じるのではない、したがって行政命令のような強制力をもって行うのではない、少なくとも形式的には任意の行為である勤労奉仕については、援護もなければ、労働環境について国家が責任を持つことはなかった。
 だが、朝鮮人労務動員は、国家性が明示され、行政機構の関与のもと強制力の度合いが強かったにもかかわらず、国家命令や強制についての法的裏づけはなく、名誉もそれに相応しい処遇も与えられなかった。朝鮮人は、帝国臣民の動員の暗黙の原則が適用されないという差別を受けていたのである。戦争末期には、国民徴用令の発動や援護施策の整備なのでその修正が図られようとしたものの、これは機能せず、失敗に終わった。そして、慰安婦としての動員は、国家=軍が要請し、事実上の強制による動員であったが、国家性の明示と法的裏づけはなかった。それゆえ、慰安婦に名誉は付与されるはずはなく、その処遇に軍や行政機構が責任を持つことはなかった。慰安婦については「臣民以下の臣民」としての戦時動員が行われたのである。以上を踏まえるならば、募集や官斡旋による炭鉱・金属鉱山等への朝鮮人労務動員や慰安婦の動員が国家による強制ではないので問題はないとする主張は成立しないことが明らである。のみならず、その主張に対してなされる、実態として国家による強制性があったであるがゆえにやはりこれらの動員は問題だとする反論も、実は戦時動員の本質をつかんでいない、不十分な見解であるということがわかるだろう。実態としての国家による強制性の存在は言うまでもなく大きな問題である。しかし、その点のみを重視した場合、民間の業者が中心になって要員確保にあたり、経済的な困窮を背景に本人あるいは家族がその職場に赴くことを選択したケースは、民間業者とそこでの就労した個人の自己責任であって、国家施策の問題ではないということになりかねない。募集や官斡旋による朝鮮人労務動員や慰安婦の動員について、実態としての強制だけでなく形式的な国家性や強制性の不在もまた重視する必要がある。国家性を明示せず、明確な法的根拠や行政命令の強制性もなしに、国策上必要とされた要員が確保され、ある種の作業に従事させられていたことこそを(そうであるにもかからず、ではなく、まさにそのことこそを)問題としなければならないのである。その事実は、そうした方法で就かされた職務が、名誉ある職務として国家性を明らかにして法的強制力をもって配置するにたるようなものではないということを示している。と同時に本来、国家が必要とした職務に従事させているにもかかわらず、国家が、その戦時動員の対象者の処遇についての責任を放棄していたということを意味しているからである。そして、国家の意向による、しかし国家が責任を放棄した戦時動員の結果として、炭鉱等で働くことになった朝鮮人男性や慰安婦とされた女性たちは、しばしば拉致、誘拐略取のごとく連れ去られ、監禁状態のなかで奴隷労働を強いられ、連続強姦の被害者となった。言うまでもなく、もっとも大きな問題とされるべきはそうした著しい人権侵害である。その事実に向き合うことが何よりも重要であり、現在、求められていることももちろん忘れてはならない。


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