法と政策から見た朝鮮人被動員者の位置
 以下の文章は、2012年4月7日に東京大学駒場Tキャンパスで開かれた「第5回強制動員真相究明全国研究集会」での報告をもとに作成した原稿です。

1、問題の所在

 1939年から1945年にかけて行われた、労務動員実施計画・国民動員実施計画(以下、この両者を動員計画と記す)に基づく朝鮮半島での日本内地送出のための要員確保はしばしば強制連行と言われてきた。また、配置先の労働も暴力的で過酷なものであり、奴隷労働に近いケースが見られたため、強制労働という言い方がなされることが多い。それが事実であることは、当事者の証言のみならず、同時代における、朝鮮総督府、厚生省、内務省警保局(特高警察)、関係企業の内部資料からも裏付けられる。さらに言えば、新聞や雑誌などでも、本人の意思とは関わりなしに人集めを行っていることが当時から公然と伝えられ、朝鮮総督府の高官がそれを戒めていたといった事実すら確認できる(より詳しくは、拙著『朝鮮人強制連行』岩波新書、2012年を参照されたい)。
 戦後に出された行政刊行物を見ても、外部に公表することを前提としないものでは、動員が暴力性・強制性を帯びていたことの記述はある。例えば、法務研修所『在日朝鮮人処遇の推移と現状』(1955年)は、1939〜1945年について「政府は、朝鮮人を集団的に日本内地に強制移住せしめる策をとった」としているし、大蔵省管理局『日本人の海外活動に関する歴史的調査』(1950年)は、労務動員について「労務者募集に当たり民族感情無視の行動随所に発生、弾圧を以てする徴用の為激情を誘発する事例稀ならず」とやや婉曲な表現ながらも暴力的な要員確保の実態を記している。また、中学校の歴史教科書でもどの会社のものも、(植民地支配の問題性を生徒に理解させる上で十分かどうかはともかく)戦時下に朝鮮人を日本内地の炭鉱等に連れて来て厳しい労働にあたらせたことについては触れている。文部科学省の検定制度の是非はともかく、教科書検定官たちもそれが歴史事実であるとの認識を持っているのである。
 だが、この間、戦時期の朝鮮人の労務動員に関して国の責任を問われた厚生労働省は、明確な回答を示さないままでいる。担当者が、上記の文書のみならず、まったく朝鮮人労務動員に関連する歴史研究の論考も読んでいなかったようでもあり、そもそもまじめに回答しようという意思自体を持たなかった可能性も考えざるを得ないが、いずれにせよ、残念であるというほかない。厚生労働省の前身である厚生省は戦時下にあって労務動員を主管する省庁であり、各種の動員計画やそれに関わる法令も主として厚生省がかかわりをもって策定されているし、政策遂行にかかわる許認可等も厚生大臣が行うものが多いことは、少々、調査すればわかることである。
 もっとも、行政機関の責任を論じるにあたっては、法令上、どんな権能を持っていたのか、何を行う役目と見なされていたのか等を正確に把握する必要があり、それについてはこれまで十分論じられて来たわけでないことも確かである。したがって、国家の責任を論じるにあたっては、当時の法令やそれに対する解釈がどのようであったかを確認する作業を行わなければならない。
 そのことは同時に、労務動員に対する民間企業の責任をより明確にすることにもつながるはずである。戦時体制下にあっては、企業経営も国の設定した統制や指令の制約を受けていたことは周知の事実であるが、しかしすべて受動的に経営が進められていたわけではない。企業自身のイニシアチブで、労務動員に関して行えたことが何であるのかをより具体的におさえておくことは企業の責任を問う際の生産的な議論に寄与すると考えられる。
 そこで本報告では、動員計画の策定が具体的にどのように行われたか、動員計画に基づいて民間企業に配置された労働者の雇入れや解雇、処遇がほかの労働者とどう異なるかを法令や制度に即して見て行くこととしたい。

2、動員計画策定の手順と関与者

 動員計画そのものは、企画院、1943年に企画院が軍需省に統合されて以降は軍需省が策定を担当し、閣議で決定されている。その際の計画取りまとめは具体的にはどのように行われたのであろうか。
 この点についてわかる史料としては企画院『昭和17年度国民動員実施計画 附参考資料』(一橋大学経済研究所社会科学統計情報研究センター所蔵)がある。この資料には1942年度の国民動員実施計画そのものとともに、「昭和17年度国民動員実施計画作成要領」などの文書が含まれており、事務レベルの公式的な手続きがある程度わかる。
 それによれば、1942年度の動員計画は、まず関係各省庁がそれぞれの主管に関わる、1941(昭和16)年度における雇入や解雇の実績、1942年度における新規需要等の見込み、新規学卒者を含む給源の動向、労働者の訓練、労務管理の刷新、待遇、労務節減等に関する方策等にかかわる資料を取りまとめて、1942年2月末日までに企画院に提出することとなっている。そしてこれを受けて、企画院が3月15日までに計画案を策定、さらに関係各庁と協議の上で3月末までに閣議決定を受けるという手順が示されていた(ただし、実際にはこの年度の実際の動員計画の閣議決定は5月26日であり、他の年度の動員計画も前年度内に閣議決定を受けたケースはない)。
 では、企画院に資料を提供し、動員計画策定にあたって協議対象となる省庁はどこであり、その担当者はどのような人びとであったのだろうか。前者について述べればようするに日本内地の省庁のすべてである。軍需生産を担う工場を直接運営している陸軍省、海軍省、民間企業の生産活動に関係する行政を担当する商工省、今日いうところの労働行政を担う厚生省、地方行政・治安問題の責任当局であった内務省はもとより、労務動員については新規学卒者や職業指導、農業生産の維持、輸送、通信も関わってくるのであり、当然、文部省、農務省、逓信省、鉄道省も動員計画策定に参画している。
一方、「外地」の行政機構は直接には動員計画策定に資料提出等は行っていない。これは形式的には外地行政を管轄する(この時期であれば拓務省)を通じてそれを行う、ということだったと考えられる。もっとも、朝鮮人の日本内地送出の人員数については、この年度の動員計画に関わるものではないが、朝鮮総督府の官僚が直接、日本内地側の担当当局と協議していることを伝える報道資料等もある。日本帝国における朝鮮の位置の重要性を考えれば、拓務省を通じてではなしに、政策決定関与に関わる協議が行われていた可能性は高いと見てよいだろう。
各省庁の担当者は、動員計画に関係する業務の各課長であった。前記資料に含まれる「人員動員主任官名簿」からは具体的な人名は不明であるが、各省庁のどの課長が「人員動員主任官」であったかがわかる。厚生省の場合は、官房文書課長、労働局労政課長、衛生局医務課長、職業局総務課長、同業務課長、同登録課長が主任官となっている。
「昭和17年度国民動員実施計画作成要領」での、動員計画策定の関係者についての記述はおおよそ以上である。したがって、民間企業や経済団体の代表者、労務報国会等の翼賛団体関係者の動員計画策定への直接的な関与は確認できない。もっとも、非公式な意見聴取はあったかもしれないし、重要産業の民間企業で構成される各統制会の権限が強化される後の時期についての実態は不明である。
 いずれにせよ、動員計画の策定に責任があるのは、企画院・軍需省を中心とする、日本内地の各省庁=日本帝国政府である。ごく当たり前の話であるが、一部の軍人の暴走でよくわからないところで動員計画が作られたのではなく、厚生労働省の前身たる厚生省の官僚も含めて資料を提供し協議を行って、動員計画が練り上げられ意思決定されたのである。
 なお、日本内地側の行政機構に第一義的な責任があるからといって労務動員に関する朝鮮総督府の責任がないということにはもちろんならない。朝鮮総督府が“無理な動員をやらされた”かのように言うのは(戦後に朝鮮総督府の元幹部がそのように回想しているケースがある)、朝鮮総督府が朝鮮行政に責任を持ち、強い権限や政治的位置を有していたことをふまえれば、責任逃れである。

3、動員計画の充足方法

 では策定された動員計画で掲げられた人員数の充足はどのように行われたのだろうか。つまりは重要産業の民間企業は、(勤労報国隊、女子挺身隊、学徒動員という短期の動員以外では)どのようにして要員を確保したのだろうか。特殊な例を除けば、次のようにそれは進められた。

@職業紹介所等の行政機構を通さない雇入れ。
戦時下に国営化された職業紹介所(その後には国民職業指導所となりさらにその後国民勤労動員署に再編された機関)は、労務調整を行うための中心的な機関であったことは間違いない。しかし、職業紹介所等に求人票をわざわざ出さなくても必要とされる人員が確保できたら企業にとっても行政当局にとっても事務の省力化という意味でそれに越したことはない。法令上も(指定された重要産業の場合、雇入れについて職業紹介所等の届け出が必要であるケースはあるものの)、門前に求人の紙を貼る、新聞広告を出す、個人的なつてで探すといった活動は自由であった。また、動員される可能性がある人びと(なんらかの事情で求職中の人びと、「平和産業」の整理や男子の雇入れ制限でほかの産業に移らなければならなくなった者など)にとっては、よくわからない工場に配置されるよりは、知人の紹介を通じて仕事の内容や職場の雰囲気等がある程度わかる事業場に就職した方が安心という事情もあった。実際に厚生省によれば、1943年度の動員計画の充足の実績では、行政機構を通じた一般職業紹介と同程度、徴用よりも多数の人びとが、「縁故募集」によって行われている。

A職業紹介所等を通した職業紹介。
 これは企業が職業紹介所等の行政機構に求人票を出し、求職者がそれを見て企業の求人担当者と会って、就職・雇入れを決定するものである。

B厚生大臣への申請と認可を受けて企業が行う募集。
 企業が募集人を通じてある特定の地域で人集めをする、というものである。その手続きは日本内地では職業紹介法(日本内地にのみ施行された)、朝鮮では朝鮮職業紹介令とその施行規則等に規定されている。日本内地では厚生大臣、朝鮮では朝鮮総督ないし道知事に申請し、その認可を受けて行うものとされた。

C官斡旋
 これは朝鮮独自の制度である。職業紹介所等の専門的な労働行政機構ではない、一般の地方行政機構が、労働者を必要としその旨を届け出た企業のために、必要な数の人員を取りまとめるという行為を指す。これは朝鮮総督府令等の法令に規定されているわけではなく、帝国議会で作られた法律や勅令でもこれに関連する規定は確認できない。あくまで朝鮮総督府内部の確認にもとづく政策として行われているだけである。その手続き等については日本内地向けに送出される朝鮮人労働者に関して行われる場合については「朝鮮人内地移入斡旋要綱」という文書が確認できる。

D国民徴用令等に基づく徴用
 国家総動員法に規定された、総動員業務への徴用を行うために勅令として出された国民徴用令(1945年にほかの動員法令と統合されて国民勤労動員令となる)に基づくものである。通常は国民登録の対象者に必要な人員数の何倍かの人を呼出し、銓衡を行い、実際に徴用する人に対しては徴用令書を渡すという手続きをとって行われる。なお、徴用は国民徴用令の法文上でも、職業紹介によっても必要な人員を充足できない場合にのみ行われるとされ、実際に当初はその発動は限定的であった。しかし、1943年に改正された国民徴用令では「徴用は国家の要請に基づき帝国臣民をして緊要なる総動員業務に従事せしむる必要ある場合にこれを行ふ」との規定となり、労務動員の中心的な手段に位置づけられた。とは言え、1943年中でも、むしろ職業紹介や縁故募集による人員のほうが手段としては多く、1944年以降には日本内地に限って見れば、女子挺身隊や学徒動員への依存が強まっていた。

 さて、これらのうち、日本内地の事業場に配置すべく朝鮮から動員された労働者の場合は、周知のように大半はB、C、Dによって行われた。伝手をたどって日本内地に渡ろうとする朝鮮人は存在したにせよ、条件の悪い炭鉱等への就労を希望する人が少なかったこと、新聞の広告等を見て応募することができた人は識字能力を持つ人でありこれも少なかったので、@の方法をとろうとしてもあまり効果はない。Aについてはそもそも職業紹介所の整備が朝鮮では極めて限定的であり、また識字率が低かったことを考えれば、これも有効な手段ではなった。かくして、B、C、Dを中心的な手段として朝鮮での要員確保が進められたわけであるが、時期的には1942年2月までがB、1942年2月から1944年9月がC、それ以降はDが主に行われたことは、これまでの研究が明らかにしている通りである。
 これらの要員確保の方法については、上記の説明でもすでに述べたが、企業、国がかかわって進められた。B、Cの場合は企業側が申請して初めて行われるものであり、切実に人員を必要としていたのは企業のイニシアチブをもって進められた。官斡旋については文字通り、行政当局の責任をもって斡旋する労働者の取りまとめが行われたわけではあるが、しかしそこでも、企業が雇用している労務補導員を派遣する制度が残されていた。そして、前記要綱によれば、形式的には労務補導員は行政当局の指示に従うことになっていたにせよ、実態としてはむしろ自分を雇用する企業の意を受けて、そのために主導的役割を果たしながら朝鮮農村で人員を確保していたケースが多いと見られる。Dについて見れば、行政処分としてある事業場に就労を命じると言う点で、国の責任が強いことは確かであるが、民間企業の事業場に配置すべき労働者の徴用の手続きは、企業側が厚生大臣に申請して進められることになっていた。手続きとしてはそれを受けて厚生大臣が徴用の必要があるかどうかの判断を下すのでそこでの国の責任もあるが、同時に、やはり企業のイニシアチブがなければある事業場に配置すべき労働者の徴用は始まらなかったのである。
 なお、徴用を申請し得る企業は、軍管理工場(陸軍や海軍が直接運営している工場)、政府管理工場(工場事業場管理令に依り政府の管理する工事事業場その他の施設)のほか、政府指定工場があり、その指定は厚生大臣が行うこととなっていた。

4、雇入れ後の徴用

 ここで、徴用については若干補足しておく必要がある。国民徴用令(1945年に国民勤労動員令となった後はそれも含めて)に基づく徴用については、それまでその事業場にいなかった人を雇入れるケース=新規徴用のほかに、現員徴用と呼ばれるものがあった。これは、すでにその企業が雇用している労働者に対して徴用令書を渡し、徴用するものであった。それを行うメリットとしては、個人の自己都合による退職、移動を防げるということがあった。
 このほかに、軍需会社に指定された企業の従業員も被徴用者として扱われた。軍需会社とは、1943年10月に公布された軍需会社法に基づいて、政府が指定するものであり、同法および軍需会社徴用規則(1943年12月17日、厚生省令第52号)は、軍需会社の従業員についていくつかの例外を除き(女子や日々雇い入れられる者など)徴用されたものと見なすことを規定していたのである。さらに、1945年1月27日に施行された軍需充足会社令は、軍需充足会社に指定された企業とその従業員については、軍需会社法等が準用されることになっていた。つまりは、軍需充足会社令の従業員も原則的にはみな被徴用者として扱われたのである。
 では、具体的にはどのような企業が軍需会社や軍需充足会社に指定されたのであろうか。前者は、民間企業で航空機や艦船を作る企業、その素材を提供する企業、つまりは製鉄や化学製品等の製造を含む重化学工業の企業のみならず、その生産にかかせない石炭を採掘する、炭鉱も指定された。1944年1月には重化学工場の企業の指定、同年4月には炭鉱等の指定が行われ、官報にも告示されている。
 一方、軍需充足会社は軍需物資やその素材の生産、重要な原料の採掘そのものに関わるわけではないが、やはりそれなしには軍需生産が成り立たない、重要産業の企業が指定された。具体的には港湾荷役を含む交通関係の企業や土木建築会社が指定されている。指定の時期は、交通関係は1945年1月、土建関係は同年7月で、これも官報に告示されている。
 ただし、軍需会社、軍需充足会社に指定されたのは、大企業のみである。金属産業であっても細かな部品を作る町工場の類が軍需会社となったわけではなく、土木建設業で軍事に関わる大規模工事に参画していても下請け、孫請けのレベルの中小零細企業は指定されていない。
 とはいえ、当時の日本の名だたる企業、軍需物資の生産に直接のみならず間接的にも関与していた企業の大半は、戦争末期までに軍需会社ないし軍需充足会社に指定されていたのである。したがって、動員計画によって日本内地の事業場に配置され、日本敗戦時点もそこで迎えた朝鮮人のほとんどは被徴用者となっていたということができる。
 さらに言えば、就労可能な年齢の男性の、労務動員による配置以外の在日朝鮮人(既住朝鮮人と言われた、戦時期以前に渡日し日本内地での生活を続けていた朝鮮人や動員計画とは別枠で戦時期に渡日した縁故渡航者)や、労務動員されて配置された職場から逃走して日本内地の在日朝鮮人社会に入り込んで生活していた人びとについて見ても、当時、朝鮮人が就労し得た業種としては土建や炭鉱、港湾労働等が多いことが知られているわけであるから、そのかなり多くが、被徴用者となっていた可能性がある。
逆に戦争末期に被徴用者となっていなかった朝鮮人としてはどんな人がいるかを想像するほうが難しいくらいである。女性や男であっても重労働に堪えられない子ども、老人、病弱者以外では、農業やかろうじて残っていた軍需物資とは無関係の産業の従事者、炭鉱や土建工事現場で働いてはいたが下請け、孫請けで大企業に直接雇用されていなかった人びと(これについてはそれなりの数になるだろう)がそこに含まれる。
 なお、被徴用者となっていなかった人びとも、だからといって相対的に恵まれた立場にいたわけではないことにも注意しておく必要がある。徴用は個人の意思では職場の移動が許されない厳しい動員であるが、同時に徴用された本人とその家族は国家による援護措置が様々に準備されていた。徴用扱いにならなかったことは、そうした措置の対象外のままであったことも意味するからである。もっとも、戦争末期に準備された朝鮮人に対する援護施策は、実際にはあまり機能しなかったという事実もあり、被徴用者だからといってすべてが援護という特典を享受したわけでもない(むしろ朝鮮人はそれと無縁であったのが通常のケース)ことも忘れてはならない。

5、就職・雇入と退職・解雇等の手続き

 労務動員計画に基づいて人員を補充しようとする場合、@〜Dの方法があるとして、これらは民間企業・雇われる側のそれぞれにおいてどの程度の「自由度」があるものだろうか。これについては個人の側がその企業で働くか否か、就労していたがそれを辞めるか、企業の側が個人を採用するか否か、辞めさせるかについて考えることが、まずは重要であろう。
 この点のうち、個人が就労するか否か、企業がある求職者を採用するか否かの雇入れについて述べれば、@の場合は当然ながら企業の側も個人の側も自由である。個人の側は職場や仕事の内容を知ってその企業への就職をやめることもできるし、企業の側はやってきた求職者を面接するなり、その技能を試して採用しないケースもある。Aの職業紹介所等行政機構を通じた職業紹介も、求職者と求人企業が顔を合わせた後に、行政機構があれこれ指図をしたり命令を出したりすることはなく、両者は自由に就職・雇入れを決めることが可能である。Bについても、法令上は個人も企業の側も就職・雇入れの採否に関する制約はない。ただし、動員計画に基づく朝鮮からの日本内地へ送出すべき人員の確保においては、実態としては様々な強制が働いており、個人の意思とは関係なしに炭鉱等で働かされることになったケースがしばしばあったことが証言等から明らかである。
 Cについては、その制度がそもそも朝鮮総督府の内部的な要綱に基づいているだけであり、法的に企業なり個人なりを拘束する明確な規定は確認できない。だたし、朝鮮総督府側は、官斡旋は行政当局が必要な人員を取りまとめて企業に渡すものであり、企業側には渡された人物についての採否を判断する権限はないと見なしていたようである。少なくとも建前としてはそうであることは、朝鮮総督府の外郭団体である朝鮮労務協会の機関誌『朝鮮労務』1942年2月号に掲載された座談会での、朝鮮総督府関係者の次のような発言から裏付けられる。
 もっとも、官斡旋の際に、行政当局がとりまとめた人びとについて、労働に堪えられない病弱者がいることがわかって、企業側がその人物を日本内地に連れて行くことをやめる、といったことは当然あっただろう。逆に個人の側が労働条件等を聞いて就職をやめたといった事実の存在は想定しにくい。官斡旋の時期には労務需給の逼迫が深刻になって来ており、個人の都合や意思が尊重されるような状況ではなくなっていたからである。
 Dについては、個人が就職するか否か、企業が採用するかどうかの判断を下すものではなく、徴用令書の記載にしたがうのみである。しかも、個人が徴用令書に従わずに配置された職場での就労を拒否したり、そこから逃亡したりしたならば、国家総動員法に基づく罰則が下されることになっていた。罰則は1年以下の懲役または1000円以下の罰金であり、そう軽いものでもなかった。
 次に、いったん動員計画に基づく就職・雇入れ(徴用の場合は徴用に基づく配置)が行われた後に、個人がそこを辞める、企業の側が個人を辞めさせることはどのようにして可能であり、その手続きはどのようであったかを確認して見よう。
 @、A、B、Cの場合は、(指定された職種の場合、職業紹介所等への届出が必要であったが)基本的には個人の意思や企業の意向を制約する法令は存在しない。もちろん、労務需給が逼迫している中で、企業の側は、ある労働者が辞めたいといっても労働に堪えられる肉体を持っている限り、あらゆる手段を使って就労の継続を強いたはずであるし、実際に朝鮮人労働者がそのような環境からの逃走を試みたケースについての証言や資料は数多くある。これに対して企業の側は、雇入れ後に上司に反抗的な姿勢を見せる者など問題があることを把握した場合にはその人物を簡単に解雇することができた。
 これに対して、Dのケース、すなわち国民徴用令による徴用である事業場で就労している者と企業の関係は異なる。個人がその職場での就労をやめる、企業の側がやめさせるには徴用解除の手続きを取らなければならなかった。手続きとは具体的には、その旨を厚生大臣に申請し、承認を得るというものである。
 ただし、国民徴用令による徴用はあらかじめ期間が定められていた。それは通常2年であり、満期になったら自然に徴用解除が行われることになっていた。これも実態としては再度の徴用を適用されて、いままで働いていた職場から離れることができなかったケースもあるだろう(なお、日本内地に配置された朝鮮人についての新規徴用は1944年9月以降なので、敗戦時点までに徴用の期間満了を迎えた人は存在しない)。
 だが、同じ徴用でも軍需会社徴用規則に基づいて被徴用者と見なされた人びとの扱いはこれと異なる。徴用解除の手続きは国民徴用令による徴用(現員徴用のケースも含めて)と同様であるが、徴用期間については、軍需会社徴用規則の場合は定めがないことになっていたのである。つまり、満期になっての徴用解除はありえず、いったん、軍需会社ないし軍需充足会社の従業員になった場合、戦争が続く限りその職場で働き続けることが想定されていたのである。

6、懲戒処分と表彰

 被徴用者の徴用解除の手続き等は上記の通りであるが、彼らについては、民間企業の経営者の意思とは無関係に、国家が直接、様々な処分を下すこともできた。これは、1943年8月10日、厚生省令第36号として応徴士服務規律が制定されたことで可能となった(応徴士とは被徴用者のことである)この厚生省令は、被徴用者=応徴士がその本分に悖る行為があった場合に地方長官や厚生大臣が訓戒や譴責、罷免の処分を下しうることを規定していたのである。罷免が行われる実例があったのかどうかは確認できないが(これはよほど実績が上がらない企業の生産責任者―これは、だいたいは社長であり、彼らも徴用された―のクビをすげ替えるといったことを想定していたと思われる)、罷免などの重い処分は官報に公告を掲載することになっていた。
 その一方で、日本政府は、被徴用者を特別に国家に尽くしている、名誉ある存在であるとの宣伝を行い、表彰を行う政策も進めていた。応徴士という語も、徴用は徴兵に準じる、国家のために皇国臣民としての役割を果たす誇らしい行為であるとの意味で作られたものである。しかし、そうした宣伝がなされたのは、実際には当時において、徴用に対する忌避があり、徴用された労働者に対して敬意を払う雰囲気がなかったという事情が関係している。付言すれば徴兵されることについてもそれが名誉でありうれしいことだと考えた日本帝国臣民ばかりではあるまい)。
 そして、1944年2月26日には厚生・陸軍・海軍省令第1号として被徴用者表彰規程が制定され、国家による応徴士の表彰も行われるようになった。対象は、徴用の本分を尽くした者、模範とすべき者などであり、ランクに応じて、勲章に似た応徴有功章等が授与された。

7、労働条件と労務管理

 民間企業において、経営者が雇用する労働者の賃金、労働時間などの労働条件をどのように設定するか、いかなる方法で労務管理を行うかといったこととは、法令に定められた基準(日本帝国の時期においては、人間的な労働を保障する程度の労働基準が存在せず、戦時下には特例で長時間労働の規制や母性保護規定等も撤廃緩和されたという事実があるにせよ、ある程度の法の規定はあった)を下回るものでなければ、自由である。しかし、被徴用者の扱いに関しては単に企業とその雇用者だけで決定されるのではなく、国家もそれに関係する、あるいは関係し得るものとなっていた。
 そもそも、政府はどんな事業所でも徴用した人びとを配置しうるとは考えていなかった。被徴用者を配置しうる事業場はほかと比べて労働条件が良好で労務管理が整ったところであることになっていた―少なくとも建前としては―のである。前述のように、徴用は、国家のために労働するという、徴兵に準じる、名誉ある行為であった。そうであるならば、そのような人びとが就労する職場は、劣悪な環境であってはならないという論理が存在していたのである。もっとも実際には、国家の命令でよくわからない職場に就かなければならない民衆の反発を多少なりとも和らげるという意図から、そのような宣伝がなされていたという背景を無視するわけにはいかないだろう。
 とは言え、徴用で配置される事業場の労働条件等を国家の側が気にかけており、劣悪な職場環境の事業場への徴用は躊躇があったことも確かである。1944年初めに炭鉱の人手不足への対応策として徴用実施が国会で論議された際にも、政府はそこにおける労務管理に改善の余地がある(=問題が多い)ことに言及して、時期尚早であるとの考えを示していたのである。
 また、1944年3月に刊行された、厚生研究会(佐々木富久)編著『決戦勤労態勢詳説』図南書房、には次のような文言が見える。
 なお、この書籍は、緒言において「本書は厚生省勤労局より、資料の提供を受けて、適当に按配して、読者諸賢の勤労問題に対する認識の便となるやうに纏めたもの」と記されており、序は厚生省勤労局長の中村敬之進が執筆しているものである。行政当局自身がまとめたものではないにせよ、その考えを伝えている著書であると言っていいだろう。
 そして以上のように、被徴用者が配置される事業場の労働条件や労務管理が適正であるべきことに責任を有すると表明していた帝国政府は、実際に、場合によってはそのあり方について直接命令を下すことも可能であった。1943年に改正された国民徴用令は、「厚生大臣は被徴用者の使用又は賃金、給与その他の従業条件に関し命令」を行うことができるとしていた。その従業員が原則として徴用扱いになっていた軍需会社についても同様であり、軍需会社法施行令には「軍需事業に従事する者の使用、解雇、従業、退職、給与其の他勤労管理に関し必要なる命令」を下しうることになっていたのである。
 もっとも、炭鉱が軍需会社に、土建会社が軍需充足会社に指定された際に、その従業員に対する待遇が改善されて、被徴用者を迎え入れるにふさわしい職場環境になっていたという話は伝わっていない。また、政府が炭鉱や土建会社の従業員の労働条件等について改善の命令を行ったという記録も確認できない。

8、援護措置

被徴用者については、以上のほかに、様々な扶助、援護の施策が用意されていた点でも、ほかの労務動員によるとは異なっていた。被徴用者の数が増加していった、そして英米との戦争に突入してさらに増えていく見通しとなっていた、1941年12月22日に厚生省令第68号として制定された、国民徴用扶助規則は被徴用者が傷害を負った際の本人への補償、死亡した際の遺族に対する弔慰金、葬祭料の支給などを行うことを規定していた(なお、この段階では、朝鮮から送出されて日本内地に配置された朝鮮人で徴用を適用された人はほとんどいないはずであり、したがってこれらの措置を受けることができた朝鮮人もほとんどいなかったはずである)。
さらに、労務需給逼迫が深刻化し(これは、適当な、つまり今までとそれほど賃金の差がなく、自宅から通える範囲内の職場に徴用し得る人物が得にくくなってきたことを意味する)、朝鮮半島での徴用の本格的な発動を前にした1944年5月には徴用関係の扶助・勤労援護拡大の方針が閣議決定された。これを受けて、1944年9月には、従来の国民徴用扶助規則では扶助の対象とならなかった人びと(例えばいわゆる内縁上の妻など)が援護を受けられることとなったほか、「補給」の支給も行われるようになった。補給とは、動員される前についていた仕事で得ていた給与等に比べて動員先での給与が少ない場合の差額分の埋合せや、動員によって別居を余儀なくされた場合のいわば別居手当などである。これらの事業は財団法人国民徴用援護会が遂行し、その財政には国庫の補助と会員企業の会費(被動員者を受入れて使用した企業が拠出する金銭)が当てられた。
 そして、この段階では朝鮮半島から送出されて日本内地に配置された朝鮮人も徴用によって要員確保が行われるようになっていたことから、朝鮮人の新規徴用者とその家族も補給の支給等の援護の対象となった。のみならず、官斡旋で日本内地に配置された朝鮮人とその家族に対しても援護が行われることも決められた。なお、国庫の補助を得て行われる補給の施策について、関係者は“徴用の国家性”を明確にしたものと宣伝していた。官斡旋による動員についてそのような宣伝がなされたことは確認できないが、官斡旋による被動員者も補給の支給等の援護の対象となったことを考えれば、官斡旋も「徴用並み」の「国家性」を持っていたと言うことができよう。
 ただし、以上のような制度や政策が実際に遂行されたかどうかと言えば、朝鮮人に関しては極めて不十分にしかなされなかったことが確認できる。同時代の新聞等でも朝鮮人に対する援護施策が機能していないことはたびたび問題となっていたし、大蔵省管理局『日本人の海外活動に関する歴史的調査』もこの点を認めている。その理由として大蔵省管理局の報告書は戦争末期の通信の途絶等を挙げているが、そもそも朝鮮においては労務動員に関する行政機構の整備がなされていなかったことが大きな理由となっている。そして、こうした行政側のほかに、企業においても問題があった。厚生省の内部文書では、企業が援護関係の書類を放置したままにしていたり、援護事業に当てるべき会費の納入を行っていなかったりするケースが報告されていたのである。

9、「徴用は公法か私法か」の論議

政府がある事業場での労働を直接的に命じ、その事業場の経営者が徴用された個人を使用するという行為は、以上述べて来たことからもわかるように一般的な雇用関係と異なっている。その点については徴用が実施されていた当時から法律上の問題としても論議されていた。
 国民徴用援護会の理事長の職にあった児玉政介が記した『勤労動員と援護』(1944年9月に原稿を完成させ、出版予定であったものを1964年に出版)には、民間企業に徴用された労働者と雇用主との間の関係は公法か私法か、という論議について紹介がある。それによれば、まず、「東京商科大学某教授」や「東京帝国大学某教授」は、民間工場の場合、被徴用者との関係は私法上での契約であるとの解釈を行っていたという。これに対して、名古屋高商教授中川一郎の説は次のようであったとされる。すなわち、「被徴用者は行政官庁の命令に依り、指定業務に於て勤務するの義務を国家に対して負担するのである。この際被徴用者の従事する官衙の長又は工場の事業主は被徴用者に対し指揮乃至指示を行ふのであるが、之に服従するの義務も亦国家に対する義務である。決して被徴用者は斯かる官衙の長、又は事業主に対して所謂労務提供の義務を負担するものではない」、「従来の私法公法の区別に従ふならば、雇用契約乃至労働契約の法律効果として発生する労務提供の義務は私法上の義務なるに反し、被徴用者の指定事業に於ける勤労の義務は公法上の義務なのである」「〔事業主の〕指示権限は之を任意に行使するを許さず、必ず徴用の趣旨に即して行使せねばならぬ。即ちそれは当該企業に於ける営利の追求を目的として行使するを許さぬ。必ずや生産力拡充のためにのみ行使されねばならぬのである」。以上のように中川は民間企業の徴用についてもそれは公法上の関係であるとしていた。付言すれば現員徴用の場合もその点は変わらないとの説を中川はとっていた。
 しかし、「某工業会社の労務課長」は、民間企業への徴用も「その実態は労務の生産参加による増産にあるから雇用に依るそれと本質的差異を発見することは困難」「徴用制度は動員配置使用従業の国家と国民との公法的関係のみでは解釈し得ない」「公法と私法の両法域の上に立つものであると見ることが出来る」、との説明を行っていることを児玉は記している。
 では、児玉自身の見解はどのようなものであっただろうか。それは「自分は中川教授の所説のごとく、公法的関係を明確にすべきことを主張する者であり、兵役義務の服行と同様に取り扱ふやうにすることが必要であると考ふる者である…最近国民徴用令の改正に伴って、軍属以外の民間工場の被徴用者を応徴士と呼ぶこととなり、忠誠精励の本旨を規定し応徴士服務紀律が制定されたのも、畢竟この徴用の公法的性格を一層明確にしたものに外ならぬと思ふのである」、というものであった。
 なお、行政当局やそれに準ずる翼賛団体等の説明を見れば、徴用において公法的性格が付与されることを各種の動員関係の法や制度の解説で述べている(雇用主と従業員との間での私法的性格がなくなるとはまでは言っていないが)。例えば、国民総力朝鮮聯盟(朝鮮総督府鉱工局労務課監修)『国民徴用の解説』1944年10月、では次のような説明がなされている。
 徴用された者を応徴士といひ、これが服務規律、表彰、懲戒等も法令で規定してゐます。即ち応徴士は国家から命ぜられた職場で働く義務があり、その工場なり事業場の事業主とは使用関係に立ちますが、直接雇用関係に立たず、あくまで国家との公法関係にあるわけです。
 また、先に引用した厚生研究会編著『決戦勤労態勢詳説』にも、国家と被徴用者の間には特別の公法関係があること(それゆえに労働条件・労務管理の適正化の責任が国家にあること)が述べられている。

10、徴用解除と戦後における援護

 日本敗戦の直後(日付は不明ながらおそらく8月中に)、徴用されていた人びとはすべて徴用解除となった。その際、国民勤労動員援護会(国民徴用援護会の後身団体)は、新規徴用の対象となり8月15日以降に徴用解除となった人びとに対して100円の慰労金を支給(現金ではなく定額郵便貯金証書を交付)している。支給の趣旨、要領等を記した「徴用慰労金支給事務に関する説明書」(おそらく、国民勤労動員援護会の作成資料と推察される。一橋大学附属図書館所蔵の「補給援護決定書類」=おそらく厚生省勤労局の内部資料の簿冊中に含まれる)。によれば、徴用慰労金支給の趣旨は「新規徴用者に対し特に国家より其の労を犒ふ〔ねぎらう〕為支給」するというものであった。
 しかし、現員徴用の者、そして新規徴用であっても朝鮮人(朝鮮にて徴用された者)は徴用慰労金受給の対象から外された。現員徴用された者については、直接的な国家の命令によってその事業場に配置されたのではない、形式的には自分の意でその企業と雇用関係を結んだということをもって差をつける理由はありえるだろう。しかし、朝鮮半島で新規徴用の対象となり日本内地に配置された人びとが、日本国家からの慰労を受けられない合理的な理由は不明である。付言すれば、前記の「徴用慰労金支給事務に関する説明書」が綴られている簿冊にはその草稿と見られる文書も入っており、朝鮮人の新規徴用者への支給を除外する文言は後からペン書きで付け加えられていることが確認できる。
 そして、周知の通り、日本の主権回復後に実施されるようになった様々な動員対象者に対する援護措置も朝鮮人・台湾人は除外されてきた。本報告に関連する民間企業への配置という形態の動員対象者も、戦傷病者戦没者遺族等援護法の1958年の改正により、「準軍属」というカテゴリーで援護を受けられるようになっている。しかしそこには国籍条項が設けられており、日本国籍を持たない者は対象外となっている。

11、まとめ

 以上、本報告では民間企業に配置された朝鮮人被動員者が法と政策から見た場合、どのような存在であったかを考えて来た。まとめおよびそれをふまえて言えることを示せば、次のようになる。
 まず、徴用も含めて、民間企業の側が朝鮮人を使用したいと申請しなければ、その事業場への動員は行われなかったことを考えれば、朝鮮人動員について民間企業の責任は当然ある。日常的な労働についての指示、労務管理に関する配慮等もいうまでもなく動員された朝鮮人を使用していた民間企業が行っていたのであり、それに関連する問題の責任はその企業に責任がある。
 しかし、民間企業の側も、動員された朝鮮人を「自由」に雇入れて働かせていたわけではないことにも注意すべきである。徴用による動員では、民間企業の側も国家の指示に従って労働者を使用しており、その使用のストップ=徴用解除も国家の許可が必要であった。官斡旋については法令でその手続きが定められていたわけではないが、行政が動員の為にとりまとめた労働者を使用するかどうかの選択権は民間企業側にはないと解釈されていた。
 これに対して朝鮮人動員の初期段階で行われていた「募集」は、民間企業と個人の自由な契約での労働であると法的には(あくまで法的建前に過ぎず、実態が別であることはこれまでの研究が実証している)言える。しかし、「募集」で日本内地にやってきた朝鮮人も含めて(もちろん、官斡旋も同様であるし、それ以外の個人的な縁故での就労の場合も)軍需会社法とその関連法令、軍需充足会社令によって1945年7月までに炭鉱、土建、港湾荷役等の主要企業に雇用されていた従業員はすべて徴用扱いとなっていた。
 そして、今日いうところの「民間徴用」=民間企業への徴用についても、それが行われていた当時において、厚生省、朝鮮総督府等の行政当局は、その「国家性」を宣伝し、国家と被徴用者の関係の公法的性格を言明していたし、通常の企業に対する国家の監督とは異なるレベルで、家族の生活の安定や相対的に良好な労働条件の維持が期待、約束されていた。
 新規徴用者で1945年8月15日以降に徴用解除となった人びとに慰労金が国家から支払われたことは、また、戦後には現員徴用された人びとも含めて準軍属として援護の対象となったことは、以上のような徴用の性格を考えれば当然であると言える。しかし、朝鮮人がその対象外となっている合理的な理由は見出しがたい。むしろ、徴用を実施する際に国家が約束し、民間企業も責任を負っていた、様々な援護(戦後の援護ではなく、同時代における別居手当の支給等)も受けられず、総動員業務に就いていた名誉ある応徴士に相応しい職場環境も与えられなかった朝鮮人に対しては特別な措置や謝罪が行われることが妥当であると考えられる。


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