在日コリアンと強制連行
―1959年発表の「外務省資料」をめぐる議論に関連して―

1、繰り返される強制連行の史実無視

朝鮮人強制連行についてはこれまでも様々な角度から歴史研究も行われてきたし、ルポルタージュ作家や地域で丹念に調査をして来られた市民による記録、当事者自身の証言を集めた書籍も数多くある。遺憾ながら日本政府として本格的な調査を行ってまとめたものはないがいくつかの地方自治体はこの問題について専門家に委託して調査を実施し報告書を作成して発表している。
にもかかわらず、朝鮮人強制連行について"日本人の動員と変わらない""本人の自由意思で日本に来ているケースが大部分である"等、史実をまったく無視した主張がこれまで盛んに流布されてきた。それに対しては根拠を示した上での反論、批判もなされてきたわけであるが、そうしたこととはお構いなしにこの種の主張はいまだに行われている。これとともに"戦後日本に残った朝鮮人は強制連行とは無関係"という言説もこのところ目立つようである。
さる3月11日には、衆議院外務委員会で高市早苗議員が「強制連行と呼ばれる事実がなく、同じ日本国民としての戦時徴用と呼ぶべきである」「昭和35〔1960〕年時点で戦時中に徴用労務者として日本内地に来られた方〔でその時点にも日本に在留している者〕が245人にすぎず」云々と発言、産経新聞は「在日朝鮮人、戦時徴用はわずか245人」の見出しでこのやりとりを報道した。高市議員ならびに産経新聞は、@朝鮮人に対する戦時動員の実態は日本人と変わらない、A現在の在日コリアンと戦時動員は無関係ということを述べたい、そう印象付けたいということであろう。
これらの主張は、史実と異なるし、これまで歴史研究や当事者の証言等を無視したものである。特に、@については、すでに何度も根拠を挙げて反論が加えられて来た謬論である。Aにかかわる研究はそれに比べると立ち遅れているにせよ、少なくとも戦時動員で日本に来てその後も日本にいることになった朝鮮人が無視していいような数ではないことは証明できる。以下ではこれらの点について説明するとともに、植民地支配の歴史と在日コリアン(以下で言う在日コリアンとは戦前からの日本居住者とその子孫であるコリアンを指すこととする。言いかえれば第二次大戦における日本敗北=祖国の解放がありながらも、日本にとどまった、あるいはそうせざるを得なかった朝鮮人とその子どもや孫などである。また本稿での朝鮮人の語は朝鮮民主主義人民共和国の国籍所持者ということではなく民族の呼称である)との関係がどのようなものであったかについて考えを述べたい。

2、「外務省資料」における労務動員の実態把握の誤謬

高市議員の発言は、外務省が1959年7月11日に発表した資料「在日朝鮮人の渡来および引揚げに関する経緯、とくに、戦時中の徴用労務者について」を根拠としたものである。この外務省資料は、実はすでに2003年9月30日の国会でも山谷えり子議員が取り上げているものである。このときも、要するにいわゆる強制連行などなかったということを主張するために持ち出されたもので、山谷議員は"1959年の外務省資料によれば朝鮮人のほとんどは自由意思で日本にやってきたということだが、現在の外務省の見解はどうであるのか"と当時の川口外相に迫っている。これに対する外相答弁は「その資料につきましては、引き続き、これは外務省としては資料として考えております」という意味不明のものであった(とは言え、これをもって自らの説の正しさが補強されたと考えて"朝鮮人強制連行はなかった"と盛んに主張する人もいるようである)。
そのような経緯を踏まえて高市議員がこの資料を再び持ち出したのかどうかは不明であるが、同議員は今回、1959年の外務省資料が有効なのか無効なのか、間違っているのかどうかを岡田外相に問いただしている。これに対する岡田外相の答弁は「調べて御返事したい」というものであった。
日本政府作成による、在日朝鮮人の日本渡航等の経緯などに関する見解の文書がこの後あるのかどうかは筆者自身も知悉していない。ただしこの1959年の外務省資料自体は発表直後から在日コリアンによって批判された。『朝日新聞』1959年7月14日付によれば、朝鮮総連が具体的な数字を挙げて反論の声明を出しているし、その後も朝鮮人強制連行に関心を持つ歴史研究者によって何度も問題点の指摘がなされて来た。そもそもこれは、朝鮮人強制連行の問題を広く日本社会に訴えた朴慶植の著書『朝鮮人強制連行の記録』(未来社、1965年)がまとめられるきっかけの一つともなったものとも言えるものである。この著書の中でも触れられているが、朴は外務省が史実に目を向けていないことに大きな憤りを感じて事実発掘の研究を進めたのである。また近年、"強制連行はなかった"といったたぐいの論が流布されるようになったことを受けて書かれた山田昭次ほか『朝鮮人戦時労働動員』(岩波書店、2005年)でも、この外務省資料の問題点が指摘されている。筆者も「朝鮮人強制連行―その概念と史料から見た実態をめぐって―」という文章を発表している。
これらの著書・論考では、労務動員の範囲と実態をどうとらえるかにかかわる問題をめぐって外務省の見解が批判されている。具体的には、外務省資料において徴用(ここで言う徴用とは国民徴用令の適用による徴用)以外の労務動員についてあたかも問題なしに進められ朝鮮人が望んで日本にやってきたかのように記している点が誤りであることが指摘されているのである。もう一度、この点についておさらいしておけば次のようである。
外務省はこの資料で1939年末〜1945年の終戦直前までに増加した在日朝鮮人約100万人について「自ら内地に職を求めてきた個別渡航と出生による自然増加」が約70万人と「鉱工業、土木事業等による募集に応じて自由契約にもとづき内地に渡来したもの」が約30万人で「国民徴用令により導入されたいわゆる徴用労務者の数はごく少部分」であると説明している。この時期の朝鮮人の渡日は政府の動員計画(企画院等が立案した労務動員計画および国民動員計画)の枠内でのものとそうでないものがあるわけで、「自ら内地に職を求めてきた個別渡航」とあるのが前者となろう。とすれば、約30万人は動員計画の枠内での、徴用によらない渡航者ということになる。しかし徴用ではない労務動員、すなわち当時の政府が「募集」「官斡旋」と呼んでいた制度のもとでの労働者の充足においては「自由契約」とは到底言えないケースが多数見られたのである。これは心理的圧迫を加えられた、暴力を加えられたことを語る当事者の証言のみならず、政府や企業の同時代の内部的な文書からも裏付けられる。そのなかには労務動員の実態が「拉致」に異ならないと述べているものすらある(これらについては前記の論著を参照されたい)。また、朝鮮総督府の事務官も1943年、したがって朝鮮における徴用の本格的発動以前に行われた経済雑誌の座談会で「労働者の取りまとめは…半強制的にやっております」と述べている(『大陸東洋経済』1943年12月1日号)。さすがに一般の人びとが目にする雑誌の座談会ということが意識されたのか、「強制的」とせず「半強制的」としているが、かなり強引に朝鮮人を駆り出しているということは当時から公然の事実であったことがうかがわれる。さらに、戦後にまとめられた法務省法務研修所の法務研究報告『在日朝鮮人処遇の推移と現状』(1955年)では1939年9月以降の労務動員について「日華事変以後の戦時体制下にあって、政府は、朝鮮人を集団的に日本内地に強制移住せしめる策をとった」と説明している。強制性が働いたことは否定されていないのである。
このほかにも労務動員の実態に関わる点で、外務省資料は間違いや不十分な記述がある。まず徴用労務者に対しては「当時、所定の賃金等が支払われている」とされているが、労務動員された朝鮮人の証言ではしばしば賃金の支払いを受けていない、強制貯蓄させられ受け取らなかったといったことが語られている。付け加えれば、徴用の場合は本人や家族に対して各種の援護措置(別居手当や働き手を取られて困窮することになったものへの手当、それまで得ていた賃金との差額分の補給など)が行われることになっていたが、これが遅延したり、支払われなかったりしたことは当時の新聞からも確認できる(この点については拙稿「アジア太平洋戦争末期朝鮮における勤労援護事業」『季刊戦争責任研究』第55号、2007年3月、参照)。公表を前提としていないものの戦後に政府がまとめた『日本人の海外活動に関する歴史的調査』(すでに復刻が出ていて現在では誰でも目にできる)でも、戦争末期の賃金の家族送金や援護措置について「空襲に伴ふ通信の不円滑又は援護機関の末端不整頓のため送金極めて円滑を欠き政府に対する更に新しき不信の声」を生み出したことを認めている。
以上で見てきたような、労働者の確保の段階での暴力性や賃金の不払い、援護の不十分性等は日本人の労務動員では見られないものである。これを朝鮮人強制連行と言って一般的な労務動員と区別して記憶し論じることに問題はないはずである。
なお、外務省資料は「朝鮮人徴用労務者」の日本内地への「導入」が「1944年9月から1945年3月(1945年3月以後は関釜間の通常運行が途絶したためその導入は事実上困難となった)までの短期間」としているが、これも違う。企業の文書や当時の新聞史料から1945年3月以降も徴用された朝鮮人の日本内地への送り出しが続けられていることが確認できるのである。

3、外務省資料における被動員者の「在日」化の過小評価

次に戦時動員と戦後の在日コリアンとの関係について考えてみよう。外務省資料は外務省資料でも、「戦時中に渡来した労務者や復員軍人、軍属などは日本内地になじみが少ないだけに、終戦後日本に残ったものは極めて少数である」、「徴用労務者としてきたもの」で1959年時点に外国人登録をしている者(つまり日本に居住している者)は「245人にすぎない」としている。高市議員や産経新聞もこれを根拠に戦後の在日コリアンと強制連行はほとんど関係ないというのが事実である、そのことが明らかになったと見ているようだ。
しかし外務省資料は―意図しているのかどうかは不明であるが―強制連行と在日コリアンとの関係を過少に見積もっている。あるいはそう印象付ける数字の出し方をしているのである。したがって在日コリアンと強制連行との関係を論じる際にこれを持ちだしてくるのは適切ではない。
そもそも戦時期の動員計画に基づく日本の事業所への朝鮮人の配置は徴用によってのみ行われたわけではない。すでに述べたようにそれ以前の「募集」「官斡旋」によっても行われたのであり、それらの場合でも暴力性を伴う労働者の充足=強制連行と呼ぶにふさわしい実態があった。在日コリアンのルーツのどれだけが強制連行と関係しているのかを論じるのであれば、徴用によって日本に来た朝鮮人の外国人登録者の数字のみを挙げて云々するではなく少なくとも「募集」「官斡旋」によって日本に来た者でその後も居住している朝鮮人の数字を含めて考えなければならないのである(強制連行の概念に軍人・軍属とされた人びとも入れるとすればそうした人びとで日本に残っている朝鮮人についても含める必要がある)。
もっとも外務省の言うように戦時期に動員されて来た朝鮮人が「日本内地になじみが少ない」ことは確かである。「なじみが少ない」のは当然で、労務動員の配置先の炭鉱等では、一般の日本人、職場や宿舎の外と接触が遮断されているような労務管理がなされていたためである。そのような状況に置かれたままで解放を迎えた朝鮮人は、日本の事情や日本語もよくわからないわけであり、彼らが日本での生活を続けることには多大な困難が伴った。もちろん、動員された朝鮮人で帰国した人びとの理由としては、「日本内地になじみが少ない」ことよりも、そもそも自分の意思と関わりなしに日本にやってきた、故郷に自分のことを心配している家族がいる、という事情のほうが大きかったであろう。
これに対して戦時動員ではなしに日本にやって来た朝鮮人のなかには、解放の時点で日本語や仕事の面で日本での生活を可能とする能力を身につけ、周囲の日本人と関係をある程度を築いて生活するようになっていた者が相当数いたと見るべきであろう。そして故郷との関係が断絶ないし薄くなっていた朝鮮人も存在したはずである。このような事情から"戦時動員で日本にやって来た朝鮮人"と"戦時動員以外で日本にやって来た朝鮮人"に分けて考えた場合、後者のうちから戦後も日本にとどまった者が多数出ることとなった。この点はこれまでの在日コリアンの歴史に関する研究でも指摘されてきたことである。
だが、戦時動員で日本にやって来た朝鮮人の戦時下の動向や、どの程度の人びとが帰国したのかについては、もう少し慎重かつ丁寧な考察があってしかるべきである。
まず日本語や日本の事情に通じていることは日本滞在を続けることの必要条件ではない。むしろ当初「日本内地になじみが少ない」のは在日コリアン一世すべてに共通するはずである。さらに言えば、朝鮮人が日本語を理解しないまま日本人との接触を多く持たなくても生活可能な環境があちこちに存在していたことを忘れるわけにはいかない。戦前の日本社会で各地に出現していた朝鮮人集住地や朝鮮人飯場がそれにあたる。
そして戦時下に労務動員されてきた朝鮮人たちで運良く配置先の炭鉱等から脱出することができた者が向かったのは多くの場合、朝鮮人集住地や朝鮮人飯場であった。というより、日本人が働く職場や日本人ばかりの居住地に逃げ込んだとしてもすぐに連れ戻されるか、逃亡生活を続けられるはずがない。
もちろん、朝鮮人集住地や朝鮮人飯場とて安全な「解放区」だったわけではない。戦時体制期には日本内地在住の朝鮮人を協和会に組み込まれて監視され、本人の写真貼付の手帳=協和会員章の携帯が義務付けられていた。そのチェックを通じて動員先からの逃亡者を発見するといったことも警察は実施している。
しかしそのような管理体制が朝鮮人飯場や朝鮮人集住地のすべてに行き渡っていたと考えることも日本帝国に対する過大評価であり、労務動員での日本内地への連行→脱出→日本内地の朝鮮人飯場等での就労、というケースは決して稀ではなかった(これは戦時期の労務需給の逼迫も背景となっている。つまり土建工事現場や炭鉱等では人手不足が深刻化しており、誰であれ働き手となる者は歓迎されたし、当局の目を誤魔化してでも使用されたのである)。このような労務動員先からの逃亡者の数がどれくらいにのぼるのかについては、法務研修所『在日朝鮮人処遇の推移と現状』には「20〔西暦1945〕年3月現在では、昭和14〔西暦1939〕年以来の約60万の動員労務者中、逃亡、所在不明が約22万」にも上っているとの記述が見える。
以上のようにして逃走し朝鮮人飯場等での生活を続けながら解放の時点を迎えた者は、より早い時期に日本に来ていた朝鮮人、つまり徴用ではなく「募集」や「官斡旋」による被動員者に多いはずである。そして解放の時点で動員先の事業所にそのままとどまっていた者は優先的に帰国の便宜が図られたのであり(外務省資料にもそのように記されている。ただし当時重要なエネルギー源であった石炭の生産確保のためとどめ置かれたケースもある。とは言えそうした人々に対しても政府が責任をもって帰国の交通手段等をセットしたことは変わりない)。したがって帰国の便宜が得られないままタイミングを逸して(朝鮮半島の政治的経済的混乱を聞くなどして)そのまま日本居住を続けた者は「募集」や「官斡旋」で来ていた人びとのなかからより多く出たと考えられる。その意味でも「徴用労務者」のみに着目して彼らのうちでその後も在日を続けた者が何人であるかを論じることは問題である。

4、人口統計から考える戦時動員による渡日者の残留

戦前生まれの在日朝鮮人一世たちがそれぞれどのようにして日本にやって来たのか、それが戦時動員と関係あるのかないのかを詳細に分析してまとめた統計が存在するのかどうかは不明であり、少なくともそれを目にすることはできない。しかし戦時動員によって日本にやってきてそのまま在日を続けた者がどれくらいいるのかを推察する上で多少の手がかりになる統計や資料はいくつかある。それをもとに推計を試みてみよう。
まず1950年国勢調査に依拠した年齢別・男女別の在日コリアンの人口統計に注目しておこう(表1)。ここからは在日コリアンの人口構成における特徴として男性超過が著しいことがわかる。そして年齢別の動向を組み入れて考えると、この時点での25歳から59歳の年齢層(F〜L)においてそれが顕著である。この年齢層は1940年時点では15歳から49歳、1945年時点では20歳から54歳にあたり、労務動員の対象となった年齢とほぼ重なる。
もちろん、これらの世代の朝鮮人男子の人口イコール戦時期に動員された人びとではない。このなかには、@日本生まれないし幼少年期に親に連れられて日本で育った、いわゆる2世や1.5世、A動員計画実施以前に日本にやってきた者、B動員政策展開期の渡日ではあるが動員計画の枠外で就労の目的で日本にやってきた者、C動員政策展開期ないし戦後に留学等の就労以外の目的で日本にやってきた者などが含まれる。
言うまでもなくそれらの人びとは各年齢層に均質な割合で含まれるわけではない。家族を伴い日本で定住する朝鮮人の世帯が増えだすのは1920年代後半からであることを考えると、1950年で25歳以上(F〜M)に@にあたる人びとは少ないはずである。特に、年齢が高くなるに比例してその割合は小さくなり、J〜Mでは無視できる水準と見てよいだろう。逆に年齢が高い層ほどAが多数含まれることとなる。そしてCについては、一般的に高等教育を受ける年齢を考えると、E〜Hの世代以外では無視してよい程度の水準と言えるはずである。
以上を踏まえて、例えば1950年時点で25〜29歳であった人びと(F)について着目してみよう。この世代は戦時下になって生産年齢層に達する朝鮮人を中心としているわけであり、動員政策実施以前の渡日者はそれほど多くないと見るのが妥当である。しかし2世や1.5世の割合は無視できない。だがその数はもっとも多く見積もっても同じ世代の女性の数を上回ることはないはずである。つまり少なくとも1万人程度は動員政策実施時期の渡日者となる。
一方この世代の場合、戦時下ないし戦後に密航して日本に留学してきた者を考慮しなければならない。少々時期は遅くなるが1953年時点の日本で学ぶ朝鮮人男子大学生は文部省の統計によれば2218人であり、これはそれ以前の数年でも同じ程度の水準かそれ以下であっただろう。ただしそのなかには男子大学生のうちには1.5世や2世が含まれる。また1世のうちで大学を卒業したのちに、あるいは途中であきらめて日本に残った者もいないではない。これらの点を考慮しなければならないので(そしてそれについての正確な統計がいまのところ見当たらないので)、Fのなかに留学目的で戦時動員期ないし戦後に朝鮮半島からやってきた朝鮮人男性がどの程度含まれるかの推計は難しいが、戦後の密航はそう簡単ではなかったことを考えればやはり数千といった数にはならないと考える。
したがってこの世代の男性のうち戦時動員政策の展開期に就労目的で日本にやってきた者は、1万人程度から数千人をマイナスしたとしてもやはり数千人となろう。そしてこのなかから動員計画の枠外での就労目的の渡日=Bの数を引いた数がFのなかでの動員による渡日者ということになる。
では戦時動員政策の展開期に動員計画の枠外での渡日はどれだけ存在したのであろうか。動員計画の枠外での新規渡日は、それ以前と同様に就労先が確実であることなどを証明したうえで渡日証明書を交付して進める「縁故渡航」と呼ばれたものと、そうした手続きを踏まない「不正規渡航」(いわゆる「密航」、当時もそう呼ばれたが、そもそも同じ帝国臣民とされた者が密航をしなければならないということ自体が奇妙であり、差別の所産である)があった。当局の統計はこれらについても断片的にしか残っていないが、動員計画の枠外での渡航は難しかったという点は間違いない。
すなわち縁故渡航について見れば、朝鮮総督府警務局『高等外事月報』各号をもとにした集計では1939年9月〜1940年4月と1940年7月の合計3万3847人で、同じ時期の動員計画による送出は6万2368人となっている。したがって当局が認めた日本への新規渡日のうち35%くらいが動員計画の枠外ということになり動員計画以外の新規渡日も引き続き活発に見える。だがこれには、この統計が取られた時期の特殊な事情、すなわち朝鮮半島南部の旱害を受けて経済的に打撃を受けた朝鮮農民の救済が必要であるという(渡日して出稼ぎをさせ現金収入を得させなければ生活が成り立たない者が多大な数にのぼったという)事情も関係していた。残念ながらこれ以降の縁故渡航の統計は確認できないが、動員計画の縁故渡航の比率がこれを上回る水準となっていたことはまず考えられない。しかもその後、労務需給逼迫が深刻化するなかで当局は動員計画の枠外での新規渡日をより明確に制限する方針を打ち出している。1942年5月には朝鮮総督府・内務省両者が「労務動員計画以外の朝鮮人労務者を内地に移入せんとするもの(所謂縁故渡航)に対しては、出来得る限り労務動員計画に依る統制下に行ふべきことを指導し、其の従事せしむべき事業竝に朝鮮人労務者の事情等より万已むを得ずと認めらるる者に限り之を認むること、而して右の已むを得ざる事情に付ては従来より一層厳重に解釈すること」ことを確認しているのである。
では密航についてはどの程度あったのだろうか。動員計画の枠外での渡航の困難化(つまり相対的に有利な就労先を自分で選べない)と戦時下における日本内地での賃金の高騰を背景に確かに戦時下において密航は増加の傾向を見せた。しかしそれだけに取締りも強化されていたという事情もあり、多大な数が密航を成功させたとは考えにくい。ちなみに1942年に日本内地で就労していた朝鮮人労働者64万3416人を対象に警察が一斉調査を行った際に発見された「不正規渡航者」が8026人となっている。もちろん「正規渡航」のふりをして押し通した者もいるにせよそれを含めても密航者の数字は重視しなければならないという水準ではない。
以上から、Fのなかで戦時動員政策展開期に就労目的でやって来た朝鮮人男子が数千人であったとして、そのなかの動員による渡日者はやはり千の単位で数えられる人数になるのではないだろうか。もちろん、動員計画以外の渡日者のほうが、生存戦略の発揮において能力が高く日本に残ったものの比率が高いとの推測はなしうるが、彼らばかりが残り、本来その数がより多いはずの、動員されて同時期に日本に来た者が極端に少ないと見るには無理があろう。
そしてG〜Tの世代についても、前述のように上の世代ではAに当たる者が多いが@のケースは少ないといったことを勘案すればやはりそれぞれ千単位あるいは数百の人数で動員されて日本にやって来た者を含むと考えられる。それを合計してどれくらいになるかの推計は精度の観点から意味がないだろうが、245人の数倍ないし数十倍にはなるだろう。
次に1959年発表の外務省資料自体にも含まれる、来住時期別に在日コリアンの人口の内訳を行った統計からの推計も行っておこう。表2はこの統計を整理したものである。ここからは戦時動員政策が展開されていた時期(1939年9月〜1945年8月15日)に日本にやって来た者が3万5016人であり、確かに相対的に少数であることがわかる。だが圧倒的少数というレベルではない。この時点の在日コリアンのうちでは5%であるものの、一世のなかでは16%程度、一世のうちで来住時期が分かっているもののなかでは24%、つまり四分の一を占める。
さて、この3万5016人に関しても、すべてが戦時動員で日本に来た人びとというわけではない。来住時期別に出した内訳なので、そこには2世は含まれないが、この統計は性別や年齢についてはわからない。つまり@家族呼寄せなどでやってきた女性や子ども、A留学等就労以外の目的で渡日した青年層の男子、B就労目的でやってきた青年層の男子ではあるが戦時動員の枠外の渡日者、が含まれるのである。
そこでまず、@とAがどの程度含まれるかを考えよう。これは内務省によってまとめられている職業別の渡日者数の統計からある程度わかる。すなわち、1940〜1942年の渡日者(一時帰郷者の再渡日、商用や見学等もすべて含む)のうちの労働者の比率を算出すれば、41.5%となっている。ただし、それぞれの年に着目して見れば、後になるほど労働者の比率は高くなっており、1942年の場合は51.9%である。その後の統計は確認できないが、その後、統制経済が強化されてあらゆる活動が軍需中心になっていった関係から、この比率はもっと高くなっていったはずである。そして空襲が始まる1944年の秋以降などは、戦時動員された労働者以外で日本内地にわざわざやってくる者はほとんどいなかったはずである。1939〜1945年という期間で考えたならば、労働者の比率は50%を相当上回っていたと見てよいだろう。
したがって、少なくとも3万5016人の半分以上、つまり1万7500人程度以上は戦時動員実施の時期に新たに日本にやってきた労働者としてもよいだろう。そこから動員計画の枠外の就労目的の渡日者(B)を除いた数が動員されて日本に来て1959年に留まっていた朝鮮人数ということになる。前述のようにこの時期の動員計画の枠外での新規渡日の許可が難しくなっていたわけであり、動員政策展開期に計画以外で日本にやって来て解放時点で日本にいた朝鮮人の絶対数は、動員計画の枠内で来た朝鮮人より少数であることは間違いない。だがそれぞれにおいてそのうちで引き続き日本に残った者の比率が高いのはやはり動員の枠外での渡日者であった可能性は高い。それがそれぞれどの程度影響しているかが動員されて日本にとどまった者の推計にかかわっているが、その点についての手がかりはない。
もし動員計画以外の新規渡日の制限された要因が大きく、動員の枠内か否かによって戦時期の渡日者が日本に残るかどうかはそれほど大きく変わらないと見れば1万7500人のうちの半分程度かそれ以上が動員されて日本に来た者と見てよいということになるかもしれない。そして来住時期不明のなかにも一定程度、動員されて来た者が含まれると見れば、1万人弱程度が動員計画の枠内で渡日し引き続き在日していた者となると推計できるだろう。逆に動員の枠外での渡日者と動員の枠内の渡日者において日本に残るかどうかについて条件の差が相当あったと見るならば、動員されて来て日本にとどまった者の数はこれよりかなり少なくなる。しかしそれが千人単位ではないレベルであるとは考えにくい。
なお、もし動員計画の枠内で渡航してその後も日本にとどまっていた在日コリアンが1950年時点で1万人程度いたと仮定すると、この時点での一世=日本生まれの在日コリアンは23万1371人なので(総理府統計局『昭和25年国勢調査報告』)、そのうちの4%強を占めることになる。また一世のうちで男性が3分の2程度であろうから、一世の男性のうちの6%強が動員されて来て在日生活を続けることとなった朝鮮人ということになる。1959年での戦時動員経験者の生存者をやはり1万人とすると、一世人口に占める比率は5%強である。
ここで1958〜1959年に行われた朝鮮問題研究所の生活実態調査班によって行われた朝鮮人集住地区の調査でも在日コリアンの日本渡航の理由について聞いていたことを紹介しておきたい。この調査は当時、在日コリアンのなかでもっとも組織力があり、帰国運動を推進する関係からも下層民衆も含めてその生活の実情を把握していた朝鮮総連のバックアップで行われた。そこでは世帯主(この時期であるのでほぼ一世である)の渡日理由についての設問もあり、回答をみると戦時期の動員によるケースが一定の割合を占めている。
すなわち宮城県仙台市の集住地では33人中の8人、大阪市泉北郡の集住地では50人中2人、京都市の集住地では51人中3人が「徴用」で日本に来たとしているのである。したがって「徴用」によって日本に来たとする者の割合は、仙台市の集住地24%と高いが、京都市の集住地は5.8%、大阪府泉北郡の集住地では4.0%、三つの合計では9.7%となる(「宮城県仙台市市原町苦竹、小田原朝鮮人集団居住地の実態について」『朝鮮問題研究』1958年12月号、「大阪府泉北郡朝鮮人集団居住地域の生活実態」『朝鮮問題研究』1959年2月号、「京都市西陣、柏野地区朝鮮人集団居住地域の生活実態」『朝鮮問題研究』1959年6月号)。
この場合の「徴用」とは国民徴用令適用による徴用ではなく、「募集」「官斡旋」を含むものである。付言しておけばこの調査では渡日の時期も聞いていること、軍属の場合を徴用と区別していること(仙台市の調査では前述の8人のほかに軍属として来たとしている者が1名いることが記されている)、戦時期の政府の計画に基づく労働者の配置以外でも、暴力を加えられ体験をしていればすべてを「徴用」と見なすような誤解はないと考えられる。 したがってデータとしては多いとは言えないにせよ、これらの調査は在日コリアンのどの程度が戦時下の動員の経験者かを知る上である程度参考になるだろう。
前述のように3つの調査から出ている数字は世帯主の9.7%というものであるが、当時の世帯主はたいがいが一世であり、若い一世(1.5世)もほとんど含んでいないであろう。となるとこの時点での一世全体のなかに占める戦時動員経験者の割合はもっと低い。また、仙台市の朝鮮人集住地での「徴用」による渡日の比率はほかに比べて高くやや特殊と見なすべきかもしれない。そう考えると、やはり戦時動員で日本に来た者は一世人口の数パーセント程度となるのではないだろうか。そして、一世人口の数パーセントが動員経験者とすれば、その絶対数は1950年代にはやはり1万人程度となる。
なお、日本政府の資料によれば、1945年9月25日時点で日本にいた朝鮮人のうち、「集団移入労務者」、つまり動員計画の枠内で日本にやって来た朝鮮人は24万3513人とされている(一般に日本内地に労務動員されてきた朝鮮人の数字は約70万人とされるが、敗戦以前に「期間満了」で帰郷した者などがいるので敗戦時点では強制連行されて日本にいた者=70万人ではないことに注意)。動員されて来た朝鮮人のうち1万人程度が帰国をしなかったとすれば、それは9月25日時点で日本にいた被動員者のうちの4%程度ということになる。8月15日から9月25日の時点までに朝鮮人が自主的に帰った者も少なくないので、もし敗戦時点で日本にいた被動員者のうち帰国しなかった者の割合を出すとすればその比率は当然ながらこれより低くなる。

5、植民地下の生活破壊の結果としての在日

以上のように精度の高い推計は困難にせよ、動員計画の枠内での渡日→戦後も引き続き在日、という朝鮮人はごく少数と片づけられる規模ではない。では、彼らはなぜ、戦後も日本にとどまったのだろうか? 次にその背景や理由を考えてみよう。
解放時点で日本にいた朝鮮人(強制連行に限らない)で帰国しなかった者がいること、つまり戦後の在日コリアンが形成された理由として一般的に挙げられる点は、@持ち出し財産の制限、A日本での生活しうる見通しがあること、日本社会への定着度合いが高い、である。ここで言う定着度合いが高いこととは具体的には日本人女性との結婚、自身ないし子どもが日本語しかできないなどで、なかには日本人との恋愛の最中であって日本に残ったということを回想している朝鮮人もいるから、やや特殊であるがそうしたケースもここに入れることとする。1959年の外務省資料での「自らの意思で日本に残ったものの大部分は早くから日本に来住して生活基盤を築いていた者であった」との文章における「生活基盤を築いていた」という部分も、このAのような事情と見てよいだろう。
このほかの日本残留の理由としては、B留学の継続希望、C「親日行為」を働いた経歴から祖国で生活しにくい、といったこともあり得ると考えられる。さらに、"朝鮮半島情勢の政治的経済的混乱を聞いた、その消息が伝わりいつ帰国するかどうか迷っているうちに機会を失った"ということもしばしば在日コリアンの回想、証言などでしばしば聞かれる話であるが、しかし朝鮮半島の政治的経済的混乱が帰国をためらわせるほどのものであることが広まるのは解放後一定の期間が経過してからである。したがって解放直後の帰国を躊躇させる要因が存在した、言いかえれば帰国断念の単独ないし第一の要因にはならなかったと考えられる。したがって、まず考えるべきは@〜Cの要因ということになる。
では、強制連行でやってきて日本にいた朝鮮人の場合、@〜Cとどう関係しているだろうか? 当然ながら、@とBはまったく関係がない。Cについては軍人軍属となった者や、労務動員で来て日本語ができる関係で中間的な労務管理の役目についた朝鮮人が関係するかもしれない。しかし相当に悪辣な親日行為を働いて悪名を馳せたというのでない限り、祖国で暮らせないというわけではないだろうから、これを理由に日本滞在を選択した者もそう多くはないと推測できる。Aのような境遇にあった朝鮮人もあまりいないはずである。日本で事業をはじめる、仕事において日本人との密接な関係を結ぶことは、動員された朝鮮人の日本語能力の不足(特に労務動員関係はそれが十分ではない者が多い)、動員先から逃亡して一定期間日本で生活するにせよそれは短期間(長くても4年程度)であることなどを勘案すればかなり難しい。戦時下の朝鮮人と日本人との結婚や恋愛は、回想や官憲資料のなかで散見されることは確かであるが、これも一定の日本語能力を持つ朝鮮人の間での話に限られる。
このように見ていくと、@〜Cは動員された朝鮮人の戦後残留の主要な理由にはならないことがわかる。では、これ以外にどのような事情が考えられるだろうか?
筆者の推察は、朝鮮半島にいる家族とのつながりを喪失し帰国しても生活のめどが成り立たないがゆえに日本にとどまったケースが存在する、言いかえれば、流民化しており、もはや故郷に戻れるような条件を失っていた朝鮮人が少なくなかったというものである。そうした朝鮮人においては、解放を迎えても故郷への帰還を積極的に希望できず、そのまま日本にとどまる結果につながって場合が多いだろう。
植民地期に没落して農地を失った朝鮮人農民が多数存在すること、彼らのなかから都市貧民になったり、日本内地を含むほかの土地で出稼ぎ労働に出たりする朝鮮人が生まれたことはよく知られている事実である。そしてそのようななかで、家族との紐帯を失う、一家離散状態となるというケースも少なからず生み出していたとことは想像に難くない。そうした背景を持つ朝鮮人男性が日本にやってくる、あるいは日本で単身出稼ぎを続けるうちに故郷との連絡を失う、という事例も当然あったと考えられる。
これはもちろん、戦時下に動員でやってきた朝鮮人に限った話ではない。むしろ、戦時期以前にやってきて在日期間が長期化していた朝鮮人のなかにこそそうした人びとが多く含まれるかもしれない。前項で見た表1では、この時点で45〜59歳の年齢階層(J〜L)において特に男女比の不均衡が目立つ。これらの年齢層は戦時動員の主なターゲットとなったわけではなくその大部分は動員政策の展開以前の時期に渡日してきたはずである。
しかし戦時期の渡日者についても、故郷の家族との紐帯を失っていた朝鮮人の存在は確認できる。例えば、NPO法人在日外国人教育生活相談センター・信愛塾によって『無明航路―在日朝鮮人一世の足跡―』(2004年)としてまとめられた、1913年、全羅南道霊光郡生まれで北海道の炭鉱に連行された人物の場合がそうである。この人物は、すでに1936年に家を出ており、平壌の工場や北部朝鮮の炭鉱、「満州」での農業労働と転々としている。家を出た理由は農業経営の困難とそれに起因する家庭の不和で、この間の家族との連絡は途絶えていた(北海道の炭鉱にいた際に故郷からの手紙が来たが、その後ここを脱走して再び連絡がなくなっている)。なお、この人物は動員計画の枠の中の渡日なのか、確証は得られないが、ソウル市内を歩いていたところ警官に呼び止められてそのまま北海道の炭鉱に連れて行かれたとしており、その時期は1939年としている。
そしてこのような流民化を促した原因としては、やはり朝鮮において行われた日本帝国の政策が大きく関係していると見るべきである。高率小作料をそのままにしているなかで水利組合事業の展開などに伴う公租負担がのしかかり、加えて農産物価格の下落などもあり、1920年代以降、農家経済が悪化したこと、その結果、自作農・自小作農の土地の喪失=小作農の現象が大量に見られたことはあまりにもよく知られた事実である。
以上から、まず植民地期における朝鮮人の大量の渡日、戦後の在日コリアンの形成は日本の政策を背景とする生活の根底的な破壊と関係していることが確認できるだろう。そして特に動員政策によって日本にやってきた者で戦後も日本に残った朝鮮人の場合、積極的に日本滞在に意義を見出したり、日本社会への定着性が強かったりしたとは考えられないわけであり、生活の根底的な破壊によって故郷との紐帯を失っていたことが帰還しなかった理由の主要なものである、とまとめられよう。
なお、この点に関連して若干の補足を行っておきたい。在日コリアンの歴史を扱った、ないしそれに触れた近年の論著では "戦後日本に残った朝鮮人は生活基盤があったから"という説明が目立つ(近年のものではないが、前述のように外務省資料と同様である)。筆者もそのような記述をしてきた。解放前に日本での生活基盤を確立していた朝鮮人は当然存在するのでこのような記述は間違いとは言えないし、また在日コリアンの歴史が単なる抑圧にさらされていただけでなく、そのなかで彼らが主体的に途を切り開いてきたことを示すためにも重要である(近年の研究での記述にはそのような意図があったと言えるだろう)。しかしこれまで述べたように在日コリアンの形成には植民地下の生活破壊があったことを付け加えて述べるべきであろう。また日本での生活基盤の確立も、植民地での生活破壊の後に進められたことをおさえておかなければならない。

6、在日コリアンの歴史にどのように向き合うか

 在日コリアンの歴史といっても、それを一世に限って見ても、個々人が歩んで来た道は多様であり、そのなかの一人に着目しても多面的に捉えられるだろう。そのなかでも動員計画によって戦時期にやってきてそのまま在日生活を続けている人びとの歴史については、 植民地支配政策の暴力性とのかかわりが相対的に明確であることは確かである。
では、動員計画とかかわりなしに日本にやってきた朝鮮人の歴史は植民地支配政策と無関係かと言えばそうではない。朝鮮での生活を困難にするような構造があるなかで渡日という選択をとったのであり、そのような構造は植民地支配政策の結果として作り出されたものであったからである。付言すれば、彼らは"自由"に日本にやってきたのではない。植民地期の朝鮮人の日本内地への移動は治安対策や労務需給調整の側面からほぼ一貫して統制されていたのであり、日本にやってきた朝鮮人はあくまで日本の当局に許可してもらって、あるいはその制限をかいくぐる生存戦略を発揮して日本に来ていたのである。
もちろん彼らは抑えつけられる一方であったわけではない。日本でのそれなりの生活基盤を築いた者がおり、なかには事業を経営するようになったり、技術や知識を身につけてそれを生かしたりして、社会的上昇を果たした人びとも存在する。だがその場合にも日本社会の差別という障壁が存在したわけであり、相当な努力を積み重ねることが求められた。
そしてそのような在日コリアンの労働は日本のインフラ整備や製造業にも寄与してきた。また、そのなかで日本人とのさまざまなかかわりが生まれ、日本の文化のなかに在日コリアンが持ち込み取り入れられたものもある。さらに、日本国内を基盤に文化芸術活動、スポーツ活動等において活躍し、貢献してきた在日コリアンも少なくない。
そうした点を考えれば、在日コリアンの歴史は、在日コリアンだけでなく日本人をはじめとする日本社会の構成員のすべての間で一定程度認識され、尊重されてしかるべきだと言えるのではないだろうか。
しかし、果たしてこれまで在日コリアンの歴史は、これまで日本の学校教育や社会教育において十分に伝えられてきただろうか。また、彼らが自分たちの歴史を記録したり発信したりする機会はこれまで十分だっただろうか。あるいはそもそもその前提となるべき研究の質や量は満足すべき水準と言えるだろうか。
近年になってこの点はかなり改善されて来たことは認められよう。しかし到底、十分とは言えないし、そうであるからこそ国会においてすら在日コリアンの歴史にかかわる奇妙な認識が披歴されたのであり、しかもその誤謬についてマスコミや学者も指摘しないという状況があると考えられる。
したがって、筆者は在日コリアンの歴史は今後もより研究を深め、その成果を発信し、学校教育をはじめとする場で伝えていくべきだと考える(歴史教科書などでも在日コリアンの形成や様々な活動について記述を充実させるべきであろう―いままでほとんどそのような声が挙がらなかったのが不思議である)。
そのような活動は、当然ながら、当事者の証言等に耳を傾けるとともに、彼らが作成した史料、これまでなされてきた研究などに基づいて行われるべきである。50年前に出された日本政府の官僚の作文を絶対と見なしてそこに寄りかかるような言説を述べる人は在日コリアンに対して失礼である。ついでに述べれば、その見識や情報リテラシー、情報収集の能力を疑われるであろう。
なお、在日コリアンの歴史のなかでもこれまで述べて来た戦時動員されて来て戦後も残留した人びとのライフヒストリーはとりわけ着目されにくく、したがって後世に伝えられにくくなっている事情があることにも注意を促しておきたい。まずそのような人びとの場合、留学目的で日本にやって来て定着したとか、日本での教育を受けることができた朝鮮人とは異なり、日本語で自分のたどって来た道を記録したり発表したりすることが困難であるケースが多い。また、戦時動員の体験を持つ朝鮮人の方は、在日コリアンについての研究が盛んとなってきた時点(ここ10年程度と言ってもよいだろう)においてすでに多くが亡くなられてしまっている現実がある。加えて、同じ年代の在日コリアン人口における男女比の不均衡を勘案すれば独身のまま高齢化し、生涯を終えられた方の割合も高く、そのライフヒストリーを知る子孫がいないというケースも少なくないはずである(したがって、二世や三世が在日コリアンのほとんどを占めるようになった現在、在日コリアンの間でも戦時動員の体験を持つ人びとは身近にはいなくなってしまい、二世、三世と接触した日本人が"在日コリアンは強制連行とは関係ない"という誤謬に陥るケースがますます増える可能性がある)。
これまでそうした人びとの証言等をまとめる活動が不足していたことが悔やまれる。この問題にかかわってきた歴史研究者は深く反省すべきである。同時に、在日コリアン一世の方の証言をうかがったり、ライフヒストリーをまとめたりする作業はいまこそ重要であり、急がなければならないことを強く認識すべきである。

補.「外務省資料」発表の背景としての韓国側の「中傷」について

 高市議員が取り上げた、1959年に発表された外務省の資料は「第二次大戦中に渡来した朝鮮人、したがってまた、現在日本に居住している朝鮮人の大部分は、日本政府が強制的に労働させるためにつれてきたものであるというような誤解や中傷が世間の一部に行われている」ことへの反論として出されたものである。ここでは世間の一部が何であるかは書かれていないが、この資料について報道した新聞記事では「在日朝鮮人の北朝鮮問題をめぐって韓国側などで」そうした「中傷」が行われていることへの反論であると記されている(『朝日新聞』1959年7月13日)。
周知のようにこの時期、北朝鮮帰国運動が高揚していた。日本政府も集団帰国に協力する姿勢をとり、この年、北朝鮮帰国事業に関する両国赤十字社間の協定が結ばれた。しかし韓国政府や韓国の社会団体、韓国政府を支持する在日コリアン等は北朝鮮帰国事業の推進に抗議しており、日本政府への抗議、国際機関への働きかけなどを展開した。「韓国側の中傷」とは、そのようなことを背景にして出されたものと考えることができる。
では、"在日コリアンの大部分は第二次世界大戦に日本が強制的に労働させるために連れて来た"という宣伝が、「韓国側」で実際になされていたのだろうか? 若干の調査をしたところ、実際にそのような言い方がされている文書の存在自体は確認できた。すなわち、1959年2月25日に東京で開催された在日韓僑北韓送還反対中央民衆大会の決議文に「現在日本には約60万の韓国人(南北を合わせて)が残留しておりますが、此の大部分は第二次世界大戦中日本が強制的に労働せしめる為連れて来たものです」云々の語が記されている(民団中央総本部『在日僑胞実態概要』、同じ集会での国連事務局長宛のメッセージでも同様の文言あり)。
ここに記された、在日コリアンの大部分が強制連行によって日本に来たとする主張は誤りである。
ただし、決議文がこれに続けて在日コリアンの97%がその本籍を「南韓」に置いていること、「南韓」に現在も父母兄弟が居住していること、「戦争によって離散された〔離散した〕家族の再合〔再結合、ないし再会か〕」が人権上の問題であるなら南韓に帰るのが順当、という文章が続いていることにここでは注目しておきたい。この文章の作成者は在日コリアンのなかで家族の離散状態にある者が多いと認識していたことが推測できるのである。
実際のところ、在日コリアンのなかで家族が離散状態にある者がどの程度いるのかは不明である。また、家族の離散状態にある者も、それが植民地期に端を発するのではなく、戦後直後および朝鮮戦争での混乱、南北分断によってそれを強いられているというケースがかなりあったことも想像される。しかし、植民地期における流民の発生のなかで、日本と朝鮮半島にまたがる家族の離散が生み出されていたことも事実である。なお、この時期の民団系の新聞を見ると本国からの人探しの広告が掲載されていることがしばしばある。
こうしたことと、戦時下に実際に無理やり人狩りのようなことをやっていたことの記憶、そうして連れて行かれた夫や子どもが帰ってこなかったケースの存在が伝えられて、在日コリアン=強制連行の被害者というイメージが増幅していったと考えられないだろうか。この点は同じ時期の韓国での言論や民衆の動向などを捉えてより分析を掘り下げていく必要があろう。
念のために付け加えておけば、このような"在日コリアンの大部分は強制連行で日本にやってきた"といった主張が民族団体や在日コリアンの間で現在も大々的に行われているわけではない。"好きで日本に来たわけではない"といった言い方がなされることは現在でもあるだろうが、それはおそらく"在日コリアンの形成には植民地支配が背景にある、そのことを日本人は認識してほしい"という意味と捉えるべきだろう。


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